取材ひと筋30年 ”最後の事件記者”が初めて明かす 私が会った最凶の殺人犯たち
2016.04.06
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日本を震撼させた凶悪犯たちを唸らせ、真実に肉薄し続け三十余年。報道のウラ側で見た、殺人犯たちの素顔とは――
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『前略、殺人者たち』を開きながら、当時を振り返る小林。
’53年、北海道生まれ。
印刷会社、「週刊大衆」記者などを経て、’85年から「FRIDAY」の記者に
「北は北海道の稚内(わっかない)から南は西表(いりおもて)島まで、日本全国行ったことのない県はありません。一番忙しかった’90年代後半は、会社の仮眠室が定宿でしたし、年間130日間出張したこともあります。普通、人生で人の死に立ち会う回数はそう多くはないはずですが、毎週毎週、殺人という異常な死に立ち会ってきた。カバンには常に数珠を入れていました」
 そう語るのは『FRIDAY』の記者として、事件ひと筋に30年以上取材を続けてきた小林俊之(62)。’15年11月、小林が『前略、殺人者たち 週刊誌事件記者の取材ノート』(ミリオン出版)を上梓した。ときに殺人者の家族と深夜まで話し込み、ときに容疑者本人と飲み交わす。そうした文字通り体を張った取材の壮絶な記録である。
「ボクは中学生の頃からノートに毎日、日記をつけていました。大人になってからも続け、事件取材のときも欠かさず書いた。そして事件ごとにファイルを作り整理してきた。いまファイルは数百冊あります。それがあるからこの本を作ることができたのです」
 この本には11の事件、そして凶悪犯たちが取り上げられている。大阪教育大附属池田小事件、秋葉原通り魔事件、奈良小1女児殺害事件、東京・埼玉連続幼女殺害事件……、タイトルを見ただけで悪夢のような惨劇と当時の衝撃がよみがえる。どの事件でも小林は独自の取材を敢行し、真相に肉薄してきた。事件が世間的に忘れられても追い続け、取材を離れて容疑者本人や家族と長期間のつき合いとなることもある。
 大阪・池田小の事件では、殺人犯、宅間守(たくままもる)の父親の信頼を得て親密な関係を結んだ。事件が起きたのは、’01年6月。包丁2本を持った宅間が池田小学校に侵入。児童8人を刺殺し、15人に重軽傷を負わせた。事件発生の2日後に現場に入った小林は、兵庫県伊丹市の宅間の実家を訪ねた。そこにはひと言でも肉声を取ろうと詰めかけた報道陣に囲まれる宅間の父親がいた。
「宅間守を知るためにはこの父親と語り合いたいと思った。父親が報道陣に囲まれているとき、戦争の話になった。思わず『ボクの父は少年飛行兵だったんです』と話を振ったら『そういう話ならオレはいつでも話すぞ』と父親が言う。この話は突破口になるかもしれないと思ったんですよ。ダメもとで、こっそり『今晩ひとりで訪ねたいのですが』と聞いてみた。そうしたら『いつでもかめへんで』と言われました。その夜9時頃、他社の記者が家のまわりにいないのを確かめて訪ねると、中に入れてくれました」
 その夜はあえて事件には触れず、翌日の深夜0時に再度訪問した。
「朝6時まで夜どおし話しましたが、『守が子供のときに子猫を3匹拾てきて浴槽に沈めて殺したんや』とか、いろいろ話してくれました。そこから人間関係ができて、話が聞けるようになったんです」
「アンタとは、話ができるよ」
 以後、小林は関西に出張するたびに、足しげく宅間家を訪れた。父親は他の新聞やテレビの記者には、「勉強してこい! オレをオモチャにする気か」と怒鳴って追い返したが、小林にだけは心を開いた。
 小林は父親から宅間守の少年時代や若い頃の逸話をいくつも聞いた。それは彼の異常な性格を浮かび上がらせた。’04年9月、宅間の死刑が執行された2日後、小林は伊丹に飛んだ。父親は淡々とこう話したという。
「朝8時過ぎに大阪拘置所から『今朝、執行しました』と電話があった。ほんとはワシが守の首を落としたかったんや」
 ’99年に起きた「本庄保険金殺人事件」で死刑判決を受けた八木茂死刑囚とは、現在まで16年の長きにわたってつき合い続けている。八木死刑囚は、交際していた3人のホステスを生命保険金の受取人として、2人の男性をトリカブトなどで殺害したとされる。八木死刑囚は殺人、詐欺などの容疑で逮捕されるまでの8ヵ月間、自ら経営するスナックで記者たちから入店料をとって頻繁に「有料会見」を開き、マスコミをにぎわせた。
「小林さん、アンタとは話ができるよ」
 ある日、八木死刑囚からかかってきた電話が以後の密度の濃い交際の始まりとなった。
「毎日のように有料会見が開かれ、100名近くの報道陣が詰めかけていた。ただ、他社は若い記者がほとんどで、やたらと厳しい質問ばかりするんです。ボクは八木と3歳しか年が違いませんし、そういう質問の仕方はしない。会見ではいつも隣に座らされました。緩衝材に使われたのかもしれません。彼はボクを利用し、こっちは彼と人間関係を作って情報収集したわけです」
 それからは毎日のように八木死刑囚から「疑惑の人物、八木です」と冗談めかして自宅に電話がかかってくるようになった。八木死刑囚の3人の愛人たちともつき合うようになった。が、八木死刑囚はしたたかで、ウソとも本当ともつかない「疑惑の真相」をしゃべりまくる。フィリピンパブやスナックを連れ回されて泥酔してしまい、翌日、勘定を見て青ざめたこともある。八木ファミリーが全員逮捕されたあとも、拘置所を訪ね、裁判を傍聴した。
 3人の愛人たちは有罪が確定したが、八木被告は無罪を主張し特別抗告中だ。小林と事件とのかかわりはまだ続いている。
「ボクは週刊誌記者として一番いい時代に仕事ができた。普通、週刊誌の取材は2~3日ですが当時は追い続けたいと主張すれば編集部が認めてくれた。もちろん編集部としては、独占的に何かネタを持ってきてくれればという期待はあるわけですが、必ずスクープ的なものが出てくるとは限らない。それでも記者の要望に応えてくれた。そんな週刊誌記者として生きてきた証として、この本を書きました」
 本書が事件を理解する一助となれば、と"最後の事件記者"は願っている。
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’01年、移送される、宅間守。宅間の父と小林との関係は14年近くに及ぶ
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当時、八木死刑囚が発表していた「好感度記者ランキング」で₂位に。「本当はナンバーワンなんだけどさ」と小林に話していた
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