スタン・ハンセン×ドリー・ファンクJr.(ジュニア)「いまだから言える 馬場、猪木のヒミツ」
2016.04.07
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テキサスからレジェンドたちが緊急来日、夢の競演
さあ、日本プロレス史に名を刻む2大外国人レスラーの登場だ! 不沈艦ハンセンとアマリロの星ドリーがまさかのダイナマイトのリングに上がる! なつかしき登場曲「サンライズ」と「スピニング・トー・ホールド」が聴こえてくるぜ!!
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 トレードマークのテンガロンハットをかぶり、お決まりのロングホーン(テキサスの牛を模したポーズ)で「ウィー!!」と叫ぶスタン・ハンセン(66・上)。引退から14年経ったが、その姿は実に絵になるのだ。
 正直言って、このポーズが日本でこれほどバカウケするとは思ってなかった。まさかオレの代名詞になるなんてね。ただ、実は「we(ウィー)!!」なんて言ってなかったんだよ。アントニオ猪木、ジャイアント馬場、ドリー・ファンク・ジュニア……彼ら年上のレスラーに対し、「オレはオマエらより若いんだ」と示すために「youth(ユース)!!」と叫んでいたんだ。ところが、日本人の耳には「ウィー!!」と聞こえてしまったようだ。それに気づいてからは仕方なく「ウィー!!」と叫ぶようにしていたよ(笑)。でも、シングルマッチでも、「オレたちはー!!」なんて叫んでいたというのも傑作だな。ワッハッハ!
 初来日は’75年。以来、トップレスラーとして日本マット界に君臨した。30年近くもの長きにわたり活躍した外国人レスラーは他にいない。
 馬場と猪木は、会社のボスを兼ねていたという点で世界でも類のないレスラーだ。どちらもグレートだが、新日本時代、猪木とリングの外で会話をしたのは2回だけ。一方、馬場とは言葉が必要ない関係だった。’81年、オレは新日本から再び全日本に移籍した。仲介したのはテリー・ファンクだ。契約書を交わしたのは最初の3年間だけ。残りの17年は馬場と握手しただけだ。その間、ギャラに関するトラブルはいっさいない。プロレス界で馬場以上に信用できる男はいない。だからこそ20年も全日本にいたんだ。
「ブレーキの壊れたダンプカー」「不沈艦」と恐れられたハンセンのライバルは、やがて同世代のジャンボ鶴田や天龍源一郎に変わり、’90年代は三沢光晴や小橋建太ら四天王の壁として立ちはだかった。
 オレは視力が悪く、メガネを外すと何も見えないので、相手にとってはデンジャラスだっただろう(笑)。最大のライバル? 1人には絞れないな。ただ、ワイルドでタフな天龍とは手が合った。あのパワーボムは一番受けたくない技だ。このオレを逆さに持ち上げて落とすなんて、それまで誰もやらなかったからな。
 三沢、川田(利明)、小橋……彼らヤングガイとの対戦は、常にハードな内容になった。容赦なくツブしても、彼らは何度でも立ち上がってきた。上のポジションを目指すのにガッツは大事なことだ。ただ、同じ四天王でも、田上(明)だけは育ちが違うように感じた(笑)。
 ハンセンの必殺技といえば、幾多のレスラーをマットに沈めてきたウエスタン・ラリアット。フィニッシュ・ホールドへのこだわりは現役を退いたいまでも強い。
 ラリアットはオレのオリジナル技と呼んでいいだろう。ラリアット・イズ・ハンセン。ほかのレスラーがやればクローズライン(アメリカでのラリアットの呼称)ということだ(笑)。別に文句をつけるつもりはないが、乱発するのはナンセンスだ。本物のラリアットというのは、確実に3カウントを取れるフィニッシュムーブなんだ。
 現在は日本人の妻と米コロラド州に暮らす。史上最高の外国人レスラーは、意外にも"専業主夫"として看護師である夫人をサポートする第2の人生を送っている。
 ユミとの出会いは31歳のとき。彼女は18歳の予備校生だった。友人に連れられて私のサイン会に来たユミに、オレがひと目惚れしたわけだ。ガハハハハ。いまは家事全般を担当しているが、もはやクッキングは趣味のようなもの。料理番組を毎日見て、メモを取りながら研究しているよ(笑)。どうだい、オレもまだまだ「youth!!」だろ!?
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 ドリー&テリーの兄弟タッグ「ザ・ファンクス」。彼らほど日本で愛された外国人タッグチームはない。ブッチャー&シークとの血で血を洗う抗争では、凶器でメッタ刺しにされた弟を救うべく、普段はクールな兄が鬼の形相でリングに飛び込む。その兄弟愛は、多くのファンに感動をもたらした。御年74歳。生ける伝説ドリー・ファンク・ジュニアは述懐する。
 レスラーだった父、ドリー・ファンク・シニアの影響で、幼少の頃から兄弟でプロレスごっこをやっていた。もちろん、私が勝っていたよ。テリーはタフなファイトスタイル。私はレスリングスタイル。兄弟でもまったくタイプが違う。実生活でのキャラクターもリング上と同じ。私は冷静だが、テリーはアツい男でクレイジーだ(笑)。
 ドリーの初来日は’69年。当時、世界最高峰だったNWA王者として、日本プロレスの2大エースであるアントニオ猪木とジャイアント馬場の挑戦を受けるためだった。猪木との一戦は伝説の名勝負としていまでも語り継がれている。
 なつかしいね。父もマネージャーとして一緒に来日したんだが、初めての日本に興奮し、やたらウロチョロする父の面倒を見るのが大変だった(笑)。それに加え、猪木に関する知識を持っていなかった。不安もあったが、リングに立てば別。グッドマッチを見せることができたと思う。猪木とは2度シングルで戦ったことがあるが、彼がカンパニーをやめることになり、3度目の対戦は流れてしまったんだ。これは心残りだよ。(日本語で)イノキ、シアイシマショウ(笑)。
 猪木戦を時間切れ引き分けでタイトル防衛した翌日、今度は馬場の挑戦を受けた。若き日の両巨頭と肌を合わせた感想とは……。
 どちらが強いか。記者に何度も聞かれてきた質問だが、比較は実に難しい。どちらもグッドレスラーだった。実際、2人が組んだBI砲は手強かったからね。タッグは個性やスタイルが違う者同士が組んだほうが面白いチームになる。テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス、馬場&鶴田、三沢&川田……。偉大なチームはいくつもあるが、「ザ・ファンクス」こそNo.1だ。
 馬場率いる全日本を主戦場にした史上最高の兄弟コンビは、日本勢を差し置いて、ベビーフェイスとして君臨した。だが、’80年代になると、その座を奪おうとするハンセン&ブロディの「超獣コンビ」がリアルな感情むき出しで抗争を仕掛けてきた。泰然自若なドリーだが、ハンセンの名前を聞いたとたん、目つきが変わった。
 2人ともウエスト・テキサス大学の後輩であり、ファンク道場の教え子だ。だが、ハンセンが全日本に出戻ってからはビジネスを越えたライバル関係になった。私は記憶を美化できない男なのであまり語りたくないが、ブロディあってのタッグチームだったと思う。
 彼は指導者としても数々のスターを育て上げた。その門下生には、名だたるレスラーが並ぶ。
 センスが飛び抜けていたのはカート・アングル。彼は天性のプロレスラーだ。日本人では、鶴田と天龍も印象的だ。彼らには同じことを教えたが、気づいたらまったくスタイルの違うレスラーになっていた。三沢、秋山(準)……。数え上げればキリがない。皆、グッドレスラーだが、No.1の愛弟子はここで通訳している西村修だよ(笑)。
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1969年12月2日、大阪府立体育館で行われたドリー・ファンク・ジュニアvs.アントニオ猪木のNWA世界戦60分ノーフォールマッチ。猪木にダブルアーム・スープレックスを見舞うドリーの勇姿。その後、猪木がコブラツイストで応戦するも、時間切れ引き分けに
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1982年2月4日、東京体育館で行われたスタン・ハンセンvs.ジャイアント馬場のPWF認定ヘビー級選手権。馬場にウエスタン・ラリアットを決めるハンセン。その後、場外に逃げる馬場を追いかけたハンセンが場外乱闘をしかけ、結局、両者反則に終わった
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スタン・ハンセン氏の新刊『日は、また昇る。 男の引き際と、闘うべきとき』は徳間書店より大好評発売中だ!
PHOTO 吉場正和 ベースボール・マガジン社(試合写真)
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