〈熊本大地震緊急ルポ〉本誌記者が目撃した「本震」に襲われた街
2016.04.17
LINEで送る

[singlemenu][ptitle]
image
熊本城では天守閣の瓦がほとんど落下し、シャチホコもなくなった。ほかにも多くの重要文化財が被災によって失われた

 目の前のカーナビが表示する到着予定時刻が、徐々に後ずさりする。つまりはまったく予定通りに進めていないということだ。
 片側1車線の道は遥か先まで車が連なり、目的地が近づくにつれて、渋滞はひどくなった。車列には一般車のほかに、自衛隊の車両や消防車両、さらには他県警の名前が書かれた警察車両などが並ぶ。窓の外からは、ヘリコプターがホバリングする音と、緊急自動車のサイレンが絶えず聞こえる。
 私が目指していたのは益城町の中心部。前夜、携帯電話の号外速報が「熊本県益城町で震度7」と表示するまで、私はその町の名を知らなかった。そして調べてみて、決して山あいのひなびた農村などではなく、熊本市の東側に隣接する、住宅の建ち並ぶ町なのだと理解した。
 15日の正午過ぎにようやく到着し、車を降りてまずは益城町の公民館へと向かった。そこでまず目に入ったのは、建物正面の駐車場に直に敷かれたブルーシートと、その上にある毛布や段ボールだった。通りすがりに声をかけた役場の職員は説明する。
「昨夜、ここには160人くらいの住民がやってきました。ほんとは建物のなかで休めるといいんでしょうけど、最初の地震のあとも余震がすごかったでしょ。建物が古くて耐震面に不安があったので、なかには入らんようにして、みんな外で寝たとです。いやもう、寒かったですよ」
 飲料水やトイレについて、さらには「具合の悪い人は(赤)(緑)の服の人に言ってください」といった注意書きが、玄関先に設置されたホワイトボードに貼られている。
 私が訪れた時間帯、大人たちは自宅の様子を見に行ったり、用事を片付けに出て行っており、数人の子供たちと老人しかいなかった。話しかけると、 「地震に驚いた」 「夜は寒かった」 という言葉が続く。とくに老人たちは、 「まさか熊本で地震が起きるやら思わんもんね」 と、予想だにしていない出来事だったとの感想を語る。
 公民館からすぐ近くにある益城町役場へと向かう途中にも、いたるところに地震の爪痕が残されていた。とくに目についたのが、ブロック塀の倒壊だ。よく見ると、そのすべてに鉄筋が通されていないことに気付く。それはまさに、「熊本には地震がない」と信じて疑わない気持ちが、多くの住民の根底にあることを物語っていた。

image
益城町役場の1階には、急遽、救護場所が設けられた

〈救護所〉
 報道関係者や自衛隊員、はたまたDMAT(災害派遣医療チーム)のメンバーなどでごった返す益城町役場の玄関先には、そう大書きされた紙が貼られていた。実際、建物内に入るとすぐ左右に毛布や食料品などを配るためのテーブルがあるが、その間の真正面には〈救護所〉と書かれた仮設の診療スペースが作られている。軽微な怪我や病気であれば、こちらで対応できるのだという。
 玄関の周囲にはほかにも、家族や知人に連絡を残すための〈伝言板〉や、うがいや消毒をするための薬剤が置かれたテーブルなどが設置されており、気遣いが窺える。なかでも人を集めていたのは、携帯電話会社が玄関先に設置した、たいていの機種には対応できるという、移動式の携帯電話充電コーナーだ。そのスペースには、色とりどりのスマホや携帯電話が充電のために置かれていた。担当者によれば、 「(地震発生翌日である)15日の午前2時か3時には開設してました」 ということから、迅速な対応だったことがわかる。
 町役場を離れた私は、続いて益城町木山という地区を目指した。目指すとはいえ、役場からは途中に信号のある交差点を一つ挟んだだけの、歩いて3~4分の距離しか離れていない場所である。その交差点は停電が続いているため、警察官が交通整理をしていた。
 木山地区に入って歩いていると、脇道に椅子を出して喋っている老夫婦がいた。
「いやもう、わしは75年生きてきたけど、自分の親からも地震の話なんて一言も聞いたことない。それがあんなすごいことが起きるなんてなあ」
 そう語るのは尾方省三さん(75)だ。私が地震の被害について尋ねると、「そこがうちよ」と、脇道から出たところに建つ家屋を指差した。見ると、道路に面したガラスのサッシ戸が取り外され、吹き抜けのようになっている。あたりには割れたガラスが散らばり、目隠しとして布が張られていた。
「中も見るか? もうめちゃくちゃばい」
 そう言われ、遠慮なくついて行くことにした。見ると、誰かが室内に家具を乱暴に投げ入れたのではないかと思えるほど、あらゆるものが散乱している。
「よくこの状況で無事でしたね……」
 驚く私に省三さんは言葉を足す。
「な、ひどかろ? けどな、不思議なもんで、仏壇だけはきれいなまま、残っとると。それには感謝しとるとよ」
 室内に入るときに私が靴を脱ごうとすると、彼は 「ああ、もうよかけん。ガラスやら割れとうけん、靴のまま上がり」 とみずから靴を履いたまま室内に入っていく。ほかの部屋も見せて貰ったが、どこも足の踏み場がないほどに物が散乱している。
 省三さんはCDかDVDのプラスチックケースをバリバリ音を立てて踏みながら、私に顔を向けた。
「この家は建てて37~38年になるけんど、でもな、命があるだけよかったと。家はいくらでも作り換えがでけるけん。人は作り換えのでけんけん。それだけはよかった。いつまでも、くよくよしとかれんよ……」

image
尾方省三さんは、「命が助かっただけよかった」と語る

 被害の大きかった地区が近くにあると省三さんに聞き、50mほど先を曲がったところを直進して、木山宮園という地区に入った。
 たしかに、ブロック塀が破壊されただけでなく、壁もはぎ取られ、室内がむき出しになっている家が続く。さらに進むと、一階部分が半分ほどに潰れてしまった家の前に老女がいた。声をかけると、左目のまわりに痣を作った顔をこちらに向けたのが山村夏子さん(86)だった。
「私は息子と二人で住んどるんですけど、朝が早いから先に寝とったんですね。そうしたらガーンてなんかが当たってね。もう、なにが起きたかわからんとですよ」
 痣はそのときにできたものだそうで、崩壊しかかった家から夏子さんを助け出したのは、60歳になる息子だったという。
「昭和42年に建てたけん、もう50年近く前の家ですけんね。いままで地震とかあってもすぐ終わるもんばっかやったとに、今回はものすごかったでしょ。もーっ、今度ばかりは生きちゃあおらんと思いました」
 夏子さんに礼を言ってさらに奥へと進み、途中で角を曲がると、木造家屋の片側が潰れ、道路に屋根瓦が散乱している一角に出た。途中で通りかかった老人が口にする。
「ここらへんが断層の真上やったとやろうな。ほかとくらべて、壊れ方がとくに酷いけん」
 たしかに、容赦のない、という言葉を使いたくなるほどに、建物が崩されている。そのすぐ近くには、真新しい車2台が、傾いた2階部分に潰されそうになっている家の前に立つ男性がいた。その家の主である東浩一さん(52)だった。
「うちは夫婦と息子1人、あとばあちゃんの4人で住んでたんですよ。夫婦が下の部屋で、息子とばあちゃんが2階。それでわたしと妻はそこから出てきたんですよ」
 浩一さんは2台の車の間にある壁の隙間を指差した。そして続ける。
「で、息子は2階におったから、そこから飛び下りさしたんですよ。で、ばあちゃんは、やっぱり1人じゃ動けんから、私が玄関にあった隙間から2階に上がって助けたんです」
 建屋の2階は、完全に下の車に支えられている。浩一さんは言葉を加えた。
「それでね、いまはこうなっとるけど、地震が起きた当初は、こんなに傾いとらんかったんです。夜に余震があったでしょ。それで傾いたんですよ」
 本震がまずダメージを与え、それに余震がダメ押しをする。そのときはそうした印象を抱いた。だが、私は自然災害の本当の恐ろしさをまだ知らなかった、ということをその後、思い知らされることになる。

image
左目のアザが痛々しい山村夏子さん

 益城町から私が泊まる予定のホテルがある熊本市へと向かいながら、震度7というとんでもない規模の地震に見舞われた割に、街が比較的平静であることに胸を撫で下ろしていた。5年前に取材した東日本大震災では、まず商店から物がなくなり、ガソリンスタンドには長蛇の列ができていたが、帰りの道中ではそのようなことはなかった。コンビニなどで、ちょっと水がほかのドリンク類よりも減っているかな、という程度の変化しか見られなかったのだ。
 もちろん、過去に例がないほどに余震の頻度だけは高かったが、それも震度2~3がほとんどで、たまにあっても震度4くらいだろうと、高を括っていた。
 その夜の深夜25時26分、私は熊本市内にある歓楽街のラーメン屋にいた。金曜日の夜にしては人通りが少ないとタクシーの運転手は嘆いていたが、それでも大地震翌日に開けている店が予想以上にあること、飲み歩く人がいることに、東日本大震災における東北地方の内陸部の夜の灯りと重ね合わせる自分がいたのである。

 突然殴られたような震度6強に揺さぶられ、完全に混乱した。マグニチュードは7・3。こちらが本震だということは、あとで知った。
 さらなる揺れを恐れ、街中の公園には人が集まっていた。まわりに高い建物がない場所を、誰もが本能的に求めていたのだ。
 やっとの思いで宿泊先のホテルに戻ると、正面玄関の周辺には建物の壁面が散らばり、上から水が降っていた。そしてなぜか、ホテルの前にはたくさんの人だかりができている。周囲の人に聞くと、みんな私と同じ宿泊客だった。先の余震(本震)で屋上のタンクが壊れ、壁面が崩れて危険なため、全員が外に出されたのだという。
 ホテルの向かいにある公園に宿泊客全員が集められ、宿泊階ごとに従業員が先導して自分の荷物を回収した。そしてバスタオルを渡されて、公園で野宿することになったのである。そこで初めて、いかに屋外で夜を過ごすことが寒いかを知った。
 翌朝、今後の宿泊はすべてキャンセルとなり、宿無しとなった私は、レンタカーで熊本市内を取材してまわることになった。まずはその前に腹ごしらえでもと、飲食店を探すも、どこもやっていない。当然である。熊本市内の電気、水道、ガスが止まっていたのである。
 ならばコンビニで弁当でも、と考えたが、棚からは食料品が見事に消えていた。わずかにおつまみ類が残っている状態だった。そして水も当然のごとく、なくなっていた。私は少しだけあったお茶を手にしたが、あとで見ると、それらもすぐに買われていったようだ。
 そして、ガソリンスタンドには長蛇の列ができていた。東日本大震災のときに、毎日のガソリンの確保に苦労していた悪夢が蘇る思いだった。
 余震が続く。これからどうなるのだろうと、不安が頭をよぎる。だが、私には最終的には帰ることのできる安全な場所があるのだ。そしてなにも失っていない。現実に被災している人々の不安や悲しみを、まったく実感していなかったことを、改めて実感する私がいたのである。
 そして今日、本当の本震後に初めて益城町を訪ねる私がいる。出会っただれもの無事を、心の底から願わずにはいられない。

取材・写真 小野一光
LINEで送る