スポーツは人間ドラマだ! 第90回 韓国の度肝を抜いた木村和司の「芸術的フリーキック」
2016.05.02
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’85年10月26日
サッカーW杯
メキシコ大会
アジア最終予選
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前半終了間際の43分、見事な直接フリーキックが決まる。木村は身長168cm。卓越したテクニックで、’94年に現役を引退するまで日本サッカー界を牽引し続けた
 ’68年メキシコ五輪以後、25年にわたって続いた「日本サッカー冬の時代」。そのなかで、最もW杯出場に近づいた瞬間がある。
 ’86年W杯アジア最終予選、日本は韓国とのホーム&アウェー2戦で、得失点差で勝利すれば悲願の本大会初出場というところまでこぎ着けていた。
 対戦相手の韓国は「アジアの虎」と恐れられた強豪。’83年からプロリーグをスタートさせていた。一方の日本も、木村和司(当時27、以下同)、加藤久(29)、都並敏史(24)ら日本サッカー史に名を刻むタレントが揃っていた。今回こそは――国立競技場を、6万2000人が埋め尽くした。
「東京・千駄ケ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、(W杯開催国)メキシコの青い空が近づいているような気がします」
 いまも語り継がれる伝説の一戦はNHK・山本浩アナウンサーの名調子で始まった。
 試合は、堅く守って速攻という韓国伝統の戦法で、あっという間に2点を先取される。しかし、前半残り2分で、日本はゴール正面でのフリーキック(FK)を得た。キッカーの木村は、こう振り返る。

「ようやった。決めちゃるけ!」
 ファウルをもらってチャンスを作ったFWの戸塚哲也に広島弁で声をかけた。ゴールまでの距離は約25m。壁は5人。思い切って(直接ゴールを)狙うしかないという思いだったけど、プレッシャーは全然なかったね。あのころはFKを3本に1本は決められるという自信があった。
 当時はカーブをかけてFKで直接ゴールを狙う選手は日本にいなかった。ワシはテレビでブラジルのペレやリベリーノのプレーを見てすごいと思い、自分もやってみようと思った。それが高校生のころ。大学生になるとGKと負けたほうが缶ジュースをおごる勝負をしながらFKの練習をし、日産に入ってからはもっとやったよ。当時の加茂周監督が特別に練習用の壁を作ってくれてね。居残りでFKの練習を続け、ロッカーは戦利品の缶ジュースで一杯になった。
 その成果を見せるときだったね。
 蹴る直前に『左に蹴る』と、コースも決めていた。構えて助走したら、右に蹴るように見えるフェイントを仕掛けた。GKが一瞬でも引っかかったら、こっちのもの。
 韓国GKの体重が狙いどおり右にかかった。同時に蹴り出したボールは壁を越えて左にカーブし、GKが伸ばした手を置き去りにしてゴール左上に決まった。
 当時はサポーターという言葉はなかったけど、あのボールにはファンの気持ちが乗り移っていた。蹴った感触はいまでも残っているよ。
 ここから反撃に出たいところだったが、韓国はハーフタイムで気持ちを切り替えたようで、追いつくのは難しかった。ソウルでのアウェー戦も1―0で負けた。
 試合後、同部屋の加藤久さんと「日本も早くプロ化していかないと、絶対W杯に行けない」と話したよ。あの試合が日本サッカー界のターニングポイントだったよね。

 ’86年、木村は国内プロ第1号選手となる。’93年にはJリーグが発足、ドーハの悲劇を経て、日本は’98年にW杯初出場を果たした。  木村が見せた世界レベルのFKは、木村から指導を受けた中村俊輔や、宮間あやなどの後輩に受け継がれている。
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