スポーツは人間ドラマだ! 第91回 走った距離は裏切らなかった 野口みずき「150cmストライド」で摑んだ金メダル
2016.05.16
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’04年8月22日
アテネ五輪
女子マラソン
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トップでパナシナイコ競技場のピッチを走る野口。2位のヌデレバ(ケニア)の猛追をかわして、ゴール。記録は2時間26分20秒だった
 12年前の8月22日、野口みずき(26=当時)は夕闇のアテネ・パナシナイコ競技場を、150㎝と言われる大きなストライドで駆け抜けていった。日中のうだるような暑さは消え、さわやかな風が舞うゴール地点で、履いていたアシックス社製のランニングシューズを手に取り、42.195㎞の道のりを支えてくれたことに感謝するように、そっと口づけした。
「みずき」の名がハナミズキに由来するのは有名だが、名付けた父・稔氏の真意を知る者は多くない。稔と妻の春子氏は横浜で出会い、駆け落ちするように三重県伊勢市に流れ着く。老朽化したアパートで暮らす一家に’78年、次女のみずきが誕生した。
「ハナミズキの花言葉は『返礼』。(東京市長だった)尾崎行雄さんが1912年にワシントンDCに桜を贈った返礼として、東京にハナミズキが届けられたとされます。アメリカは肌の色が異なる人々がひとつにまとまって国家を築いている。私たち家族もつながりを大事にして幸せに暮らしたい。そんな思いを込めました」(稔氏)
 春子には別の男性との間に生まれた子どもが既にいて、暮らしは貧しかったが、野口は自転車を買ってもらえなくても、走って友だちの家や公園に遊びに行く活発な少女だった。もともと稔は、娘を高校に進学させるつもりはなかった。強豪陸上部で知られる宇治山田商業への進学を父に説得したのは、中学を出て働きに出ていた野口の兄姉たちだった。社会人となってからも、野口は一時、所属がなくなり、失業保険を受給しながら走った時期もあった。当初のワコールからグローバリー、そしてシスメックスと会社は移ったが、一貫して陸上界の名伯楽である監督の藤田信之氏を父のように、当時はコーチだった廣瀬永和(ひさかず)氏(現在はシスメックス総監督)を兄のように信頼し、ひたすら走り込む日々を送った。
 誰かの支えや理解がなくては、走ることが許されなかったのが野口の競技人生だ。その恩に報いるにはマラソンで結果を残すほかなかった。野口にとって42.195㎞は、常に「返礼」の旅路だった。
 初マラソンだった’02年名古屋国際と’03年大阪国際を制し、同年のパリ世界陸上では銀メダル、そしてアテネ五輪では金メダルを獲得した。翌’05年のベルリンマラソンでは2時間19分12秒の日本記録を打ち立てた。
 しかし、’08年北京五輪は直前に左足の付け根部分を負傷し、出場を辞退。日本代表に返り咲いた’13年モスクワ世界陸上は初めてレースの途中で足を止めた。
 37歳となり、リオ五輪の選考会となる今年3月の名古屋ウィメンズでも5㎞地点で先頭集団から脱落し、23位に終わった。そしてその1ヵ月後、野口は引退を表明した。
「"足が壊れるまで"の言葉通り、思う存分走り切れた。幸せな陸上人生でした」
 月に1300㎞以上も走り込んで迎えたアテネは「走った距離は裏切らない」という信念を証明する場であった。一方で、日本記録を樹立してからの11年は、走った距離に裏切られ続けた競技人生だったかもしれない。それでもマラソン選手にとって職業病というべき股関節の故障を克服していく過程を後進に伝えることで、陸上界に貢献しようとしていた。
 再び栄冠を手にする日は訪れなかったが、不屈のランナーの小柄ながら飛び跳ねるような走りは、ファンの記憶に刻まれている。
(ノンフィクションライター・柳川悠二)
PHOTO:AP/アフロ
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