スポーツは人間ドラマだ! 第94回 「おもしろい柔道を見せたい」野村忠宏 五輪3連覇に込めた「思い」
2016.06.06
LINEで送る

[singlemenu][ptitle]
’04年8月14日
アテネ五輪
柔道男子60kg級
image
3回戦、ドイツのグッセンベルクにキレ味抜群の背負いで一本。当時「ノムラの技はくると分かっていても防げない」と恐れられていた
「年齢を考えても、アテネは最後のオリンピックになるかもしれない。だからこそ、日本の柔道を世界に見せつけたいという思いがありました。歩き方や礼の作法、気迫まで、やってきたことすべてを表現したかった」
 野村忠宏(当時29)は、’04年のアテネオリンピック後のインタビューで、こう語った。
 ’96年のアトランタ、’00年のシドニーで圧倒的な強さを誇った野村だが、アテネまでの道のりはこれまでになく厳しかった。
 一度は進退を保留し、サンフランシスコへ語学留学に旅立った野村が、「五輪3連覇の夢が捨てられない」と畳の上に戻ってきたのは’02年のこと。アテネの頂点を目指し、激しい練習を再開した。
 だが、その直後に右肘を負傷。翌年3月のポーランド国際では無名の選手に屈辱の一本負けを喫してしまう。誰よりも否定してきた“おもしろくない柔道”しかできない自分が、情けなかった。
「このままでは終われない。オリンピックで結果を出したい」
 ふがいない日々が続いていた野村が奮起したのは、’03年9月、大阪で行われた世界選手権だった。結果は銅メダルだったが、往年の技のキレ味に多くのファンから「よく復活した!」と激励のメッセージが寄せられた。3度目の五輪出場権をつかんだ野村は、完全復活を遂げたかに見えた。
 ところが大会直前、野村は練習中に右わき腹を痛めてしまう。ケガは試合当日になっても完治せず、手負いのまま出場を強行するしかなかった。
 こんな状態で、まともに戦えるのか――。
 しかし、この日の野村は冴えわたっていた。シードで登場した2回戦は2分46秒、代名詞とも言える強烈な背負い投げで一本。続く3、4回戦も完勝し、準決勝では強豪のツァガンバータル(モンゴル)を開始23秒、豪快な大内刈りで仕留めた。
 迎えた決勝戦。野村はグルジアのヘルギアニに対し、激痛に耐えながら攻撃をしかける。5分間の激闘は、野村の闘志がヘルギアニを上回り、優勢勝ちをもぎとった。
「あの日は、相手の動きがよく見えていた。組手争いでも負ける気がせず、力がみなぎっていた。そういう時は自然に気持ちも盛り上がって、いいパフォーマンスができるもの。普通にやっていれば、負けるわけがないと思っていた」(野村)
 この大会で野村は、五輪の柔道競技史上で初となる3連覇を達成した。しかも大会後、なんと4年後の北京五輪を目指すと現役続行を宣言。「アテネ五輪の決勝では、中盤から一本勝ちを狙う自分の柔道ができなかった」という悔いを残したからだ。そして’15年に引退するまで、40歳を迎えても一本にこだわり、理想とする柔道を追い続けた。勝つことだけでなく、自分の美学を求め続けた唯一無二の柔道家だった。
(スポーツライター・折山淑美)
PHOTO:築田純/アフロスポーツ
LINEで送る