【短期集中連載】FRIDAYノンフィクション 高倉健が愛した女と男
2016.07.15
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第4回 あんなに愛していたのに…江利チエミとの結婚生活が破綻した理由
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1960年2月、結婚1周年を迎えた頃の高倉健と江利チエミ。東京・世田谷の自宅にて
 高倉健(享年83)こと小田剛一(たけいち)が、江利チエミの代表曲「テネシー・ワルツ」を知ったのは、まだ明治大学に通っていた頃だった。
「ジャズやシャンソン……。私たちの若いときは、皆が西洋かぶれでした。で、私が高校生のとき、兄が『おい敏子、これを聞いてみろ』とレコードを東京から持ち帰ったことがあったんです。その曲がチイちゃん(江利チエミのこと)の『テネシー・ワルツ』でした。大変なヒットでした。兄よりずっと先にスターになっていましたから、もともと憧れていたのは兄のほうだったんです」
 そう目を細めるのは、4つ違いの実妹、森敏子だ。高倉健は東京から九州へ里帰りした折、「これで英語を勉強しろ」とレコードといっしょにテネシー・ワルツの英文歌詞を書き写し、妹に手渡したという。江利チエミがこの曲でデビューしたのは1952年1月、まだ15歳だ。かたや高倉健は21歳になるひと月前の無名の大学生だった。そんな二人が初めて会ったのは、それから4年ほど経ったのちだ。敏子が声を落として続けた。
「はじめはファンというだけでしたけど、たまたま映画界に入って(’56年放映の東映「恐怖の空中殺人」で)共演したのよ。それからずっと、兄はチイちゃんのことがいちばん好きだったんです」
 美空ひばり、雪村いづみとともに三人娘として人気絶頂だった江利チエミに対し、高倉健も東映の大物ニューフェイスとして映画デビューし多忙を極めていた。付き合い初めの頃は、江利チエミにひと目会うため、映画撮影の合間を縫って彼女の仕事先の大阪まで夜行列車で往復したこともあったという。そうして二人は’59年2月16日に結婚する。
 高倉健は結婚前に九州の家族に江利チエミを紹介した。江利チエミは家族の中でもとりわけ年齢の近い実妹の敏子と気が合った。敏子は、二人が結婚する前の婚約時代に江利チエミといっしょにひと月ほど暮らした経験まであるという。
「チイちゃんはあの通り、裏表がない人でね。私も大好きだった。それで頻繁に手紙を出し合うようになりました。その中で、東京に遊びに行きたい、と無理やり押しかけたんです。まだ新幹線がなかったので、24時間夜行列車に揺られ、東京駅に兄の高校時代の友達が迎えに来てくれましてね。以来、チイちゃんとはずっと仲よしでした。家族にとっても兄にとってもいい奥さんでした」(敏子)
"炭鉱王"との意外な関係
 かつて炭鉱で栄えた福岡県中間(なかま)市生まれの高倉健は、ことのほか郷里や家族を大切にしてきた。もともと小田家は、遠賀(おんが)川沿いのこの地で江戸時代初期から小松屋という屋号で両替商を営んできた豪商だった。大坂夏の陣の翌1616年に建立された菩提寺「正覚寺」の裏山には、本家の墓があり、それとは別に高倉健の両親と兄が境内の墓で眠っている。本家の墓には小松屋の娘で江戸後期の筑前歌人、小田宅子(いえこ)が墓碑に詩を刻んでいる。信心深い高倉健は毎年欠かさず、両親と本家の両方の供養を住職に頼んできた。
 1975年11月に80歳で他界した高倉健の実父、小田敏郎は明治生まれでありながら身長181㎝もあり、筑豊相撲でしこ名まで持っていたほど体格に恵まれていた。その腕っぷしを見込まれ、戦中は海軍に入隊し、退役後は筑豊炭鉱で労働部長として鉱員たちを監督した。あまり知られていないが、高倉健は歌人・柳原白蓮(びゃくれん)の夫であり、炭鉱王と異名をとったあの伊藤伝右衛門とも縁続きだ。親戚の一人がその複雑な関係を説明してくれた。
「高倉の父親は相撲が盛んな海軍からスカウトされたのですが、伊藤伝右衛門の関係先の炭鉱に勤めていました。子供がいなかった伝右衛門は妹の息子たちに炭鉱を継がせた。その伝右衛門の甥が高倉の父親の義理の妹、つまり高倉の叔母と結婚していた。そんな関係で高倉の父親は中間や(福岡県中部の)朝倉郡の宝珠山炭鉱で労働部長をしていたのです。宝珠山炭鉱などは5000人の鉱員が働く大きなヤマだから、その荒くれ者たちを束ねるのは、大変だったと思いますよ」
 炭鉱は日本のエネルギー政策を担っていただけに、小田家は羽振りがよかったに違いない。高倉健が生まれたのは、まさに筑豊地域が活気にあふれていたそんな時期だ。父親の敏郎は筑豊地方に飽き足らず、中国大陸に渡って満州で炭鉱に携わった時期もあるが、終戦を前に日本へ引き揚げてきた。映画のロケを終えるとふらりと旅に出る高倉健自身の探求心や冒険心の強さは、父親譲りかもしれない。郷里の福岡県立東筑(とうちく)中学(のちの東筑高校)に進学すると、ボクシングを始め、当時では珍しい英会話クラブ(ESS)をつくった。
「たまたま小倉(こくら)の米軍基地に住んでいる同じ齢くらいの米軍人の子供と仲よくなって、本場の英語を覚えるのは友達になるのが一番早い、と休日の度に通うようになったそうです。ボクシングもそこで教えてもらったという話でした」
 北九州に住む姪がそう話した。米軍基地は現在の小倉南区にあったが、高倉健の家からは優に1時間以上かかる。
「最初の頃、伯父が泊まったまま家に帰ってこなくて、叔母たちはたいそう心配したみたい。すると向こうの親御さんが、サンドウィッチの弁当を持たせてちゃんと学校に送り出していたのです。それから週末は必ず遊びに行って向こうに泊まって、帰って来るというパターン。あるときは基地の売店で売っているズボンを買ってきて私の母(高倉の妹)にプレゼントしてくれた。格好いいのでのちに私も穿(は)いていました」(姪)
 すっかり話題がそれてしまったが、東映時代や江利チエミとのエピソードに戻そう。’54年に明大を卒業した高倉健は、折からの就職難で1年間浪人し、まず美空ひばりの所属事務所の面接を受けた。
「高倉は明大入学後、1年だけ相撲部に籍を置いたことがあり、その相撲部の滝沢寿雄監督が美空ひばり事務所の重役の顔見知りだった。それで、事務員にどうか、と頼んでくれたんですが、顔を見て、『お前、俳優はどうか』という話になったんです。どのみち就職先がないから、『やります』と話が進んだらしい」(前出・親戚の一人)
 そうして美空ひばりの所属事務所から紹介されたのが、東映だったという。実妹の敏子にも、この件を尋ねてみた。
「東映入りは、ひばり事務所ではなく、滝沢先生の紹介だったと思います。もともとうちの父の兄が明大の卒業生で、その関係から相撲部の滝沢先生を知っていたのです。それで、東映にいらっしゃった富司純子さんのお父さん(俊藤浩滋(しゅんどうこうじ))を紹介してもらったのです」
 繰り返すまでもなく俊藤は、現東映会長の岡田裕介の父親である岡田茂と二人三脚で、映画界をリードしてきた名プロデューサーだ。鶴田浩二や高倉健、萬屋錦之介などのスターを育て、やくざ映画や時代劇で東映の黄金時代を築いた。その俊藤との出会いを機に、高倉健はスター街道を駆け上がっていく。
正体を隠して近づいた異父姉
 そうして高倉健は、憧れの江利チエミとの結婚を決めた。婚約時代の知られざるエピソードを実妹の敏子が明かす。
「チイちゃんがうちに挨拶に来たんです。そのとき母が翡翠(ひすい)の指輪をチイちゃんにプレゼントしてね。それを親戚の家に回る途中、失くしてしまったんです。ちょうど、うちの地元の(JR鹿児島本線)折尾駅に着いたときに大騒ぎになって、慌ててしまったんでしょう」
 翡翠の指輪は、駅前でファンに囲まれ、もみくちゃにされているあいだに落としてしまったらしい。日頃、高倉健本人は帰省する際、事前に実家に電話を入れ、誰にも見つからないよう夜になってから実家の門を潜(くぐ)ったが、江利チエミは明け透けだ。生来の明るい性格のおかげもあり、小田家の親戚中から愛され、本人もまた家族に溶け込んだ。前出の姪が結婚当時を思い起こしながら話した。
「おいちゃんは神経質な人ですけど、チエミさんはテレビに出ているあのまんま。北九州市の八幡市民会館でコンサートがあったときも、おばあちゃん(高倉健の実母)の家に一人で立ち寄りました。『ただいまー』と大声をあげて帰ってきたのを思い出します。真っ昼間だったので、江利チエミが来た、と近所の人が押しかけてきましたけど、本人はぜんぜん平気、誰とでも気さくに話していました」
 江利チエミは夫のことを人前で「ダーリン」と呼んだ。高倉健は、自分自身にないそんな天真爛漫な姿に惹かれたのかもしれない。
 だが、相思相愛の結婚生活は’59年から数えて12年後の’71年9月に終わりを告げた。報道によれば、離婚の原因は江利チエミの異父姉が引き起こした金銭トラブルだったとされるが、それはまるで推理ドラマのような話でもあった。
 幼くして江利チエミの実母歳子と生き別れになった異父姉が、正体を隠して計画的に彼女に近づき、家政婦兼付き人となる。献身的に働くふりをしながら信頼を勝ち得た異父姉は、夫婦仲を裂くために噂を流し、二人は別居を余儀なくされた。異父姉はやがて芸能活動における経理まで任され、実印を使って預金を使い込み、借金を重ねるようになる。いつの間にか江利チエミは4億円の借金を背負う羽目になり、異父姉を刑事告訴した。
 そして、別居した二人は互いを思いやるあまり、離婚という道を選んだ。それから10年後の’82年2月13日、焼酎のミルク割を喉に詰まらせ、心不全で息絶えた江利チエミが自宅マンションで発見される。
「あまりにも哀しすぎてね、これまで誰にも言っていませんが、実は離婚したとき『なんでチイちゃんと別れたのよ』と兄を問い詰めたんです。兄は、チイちゃん側の弁護士が離婚届を持ってきて、すべてが整っていて印鑑を押すだけになっていてどうしようもなかったと言っていました。好きだったからこそ、男としてそうせざるをえなかったんだと思います」
 江利チエミと仲のよかった高倉健の実妹、敏子は言葉を詰まらせ、二人の水子の眠る鎌倉霊園の墓に思いを馳せた。
「鎌倉霊園の墓を買ったとき兄からは『見晴らしがいいけん、いつでも行ったらよか』と電話がありました。あそこにはチイちゃんとの水子墓も建っているし、離婚のときも何もできなかったので、兄が亡くなってからお参りに行きました。最近、チイちゃんの夢をよく見るの、何か知らせようとしてくれているんじゃないかな、とも思うんです。それこそ天から見ていると」
 高倉健の死後三回忌を待たずして、養女によってその水子の墓が撤去されてしまったのは、先週号までに詳報した通りだ。泉下の二人はそれを知らない。(文中敬称略 以下次号)
取材・文 森功 (ノンフィクション作家)
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’66年、大泉の撮影所で江利チエミの差し入れ弁当を食べる高倉健。当時、江利は「本当は毎日でも持ってきたいんだけど、誰かさんが照れるみたい」と話していたという
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小田一家。左から2人目の学生服姿の子供が高倉健で、右端が父の敏郎
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学生時代、友人らと記念撮影をする高倉健。写真前列中央が本人
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生前、高倉健が購入していた鎌倉霊園の墓。現在は養女によって更地にされてしまった
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上の写真の右端にある水子墓を拡大したもの。「昭和三十七年一月 水子」との文字が
PHOTO:報知新聞/アフロ(1、2枚目)
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