スポーツは人間ドラマだ! 第102回 マジックのパスをジョーダンが決める「ドリームチーム」実現の真相
2016.08.01
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’92年8月8日 バルセロナ五輪
男子バスケット決勝
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当時29歳のジョーダンは、キャリアのピークを迎えていた。五輪全試合に先発出場。平均14.9点を記録した
 マジック・ジョンソン、チャールズ・バークレー、そして、マイケル・ジョーダン。元祖ドリームチームを指揮したチャック・デイリーはこう述懐する。
「行く先々でエルビス(プレスリー)とビートルズを一緒くたにしたような喧騒が起きた。バルセロナ五輪への旅は、12人のロックスターと一緒のようなものだった」
 1992年、バルセロナ五輪では対戦相手の選手までカメラを手に頬を紅潮させ、勝敗どころではなかった。コート上でも、サインや握手、至近距離からの撮影に夢中になっていたのだ。
 大会では全8試合で100得点以上をあげ、平均43.8得点の大差をつけて勝ち進んだ。マジック・ジョンソンの言葉を借りれば、
「もっと得点しようと思えば、もっと得点をあげることができた。でも、それは僕たちのゴール(目標)ではない」
 アマチュアの祭典にプロが出場すること、選手村には宿泊せず、モナコ公国での優雅な合宿、ゴルフ用具一式を持参したことなどに、小姑のような批判は常に付きまとった。
マジックHIV感染の衝撃
 当初はドリームチームの実現は不可能と考えられていた。NBAは最盛期を迎えつつあり、収益も莫大に上昇していたから、五輪参加には消極的だった。とくにマイケル・ジョーダンが、
「もうロサンゼルス五輪で金メダルはもらった」
 と乗り気ではなかった。
 ジョーダンは当時、シカゴ・ブルズ入りして7年。’91年6月には初出場のファイナルでマジックがいるロサンゼルス・レイカーズと対戦し、新旧のスター対決が全米の注目を集めた。
 悲願の優勝トロフィーをぬいぐるみのように抱きしめ、ジョーダンは父親にすがり、大声をあげて泣きつづけた。大粒の涙がトロフィーを濡らし、金色の影を落としたあの瞬間、二人は世界でいちばん幸福な父と子だったに違いない。 
 ジョーダンはNBA連覇にむけて燃えていた。シーズンオフは家族と休息をとることにこだわり、ホワイトハウスからの招待も、
「ブッシュ大統領には前にもう会っているから」
 という理由で欠席。物議をかもしたほどだ。
 ラリー・バードも膝の故障で、五輪参加を渋っていた。この情勢をひっくり返し、ジョーダンやバードを説得したのはマジックだった。
「想像してごらん。僕のパスをマイケルが受けて、シュートするんだ」
 マジックは’92年シーズンの開幕前、契約と保険を更新するため、健康診断を受けなければならなかった。
 驚愕の診断結果。マジックはHIVに感染していたのである。
 カミングアウトして引退を発表したため、驚くべきニュースは世界中を駆け巡った。ジョーダンもバードもすぐにマジックの自宅に電話をくれた。
 当時はまだニュース番組でも「あの気持ちの悪いエイズ」とキャスターが発言してしまうほど、社会全体に間違った知識と偏見があふれていた。マジックがコートに立つのは、バルセロナ五輪の場が最後となるかもしれない。ジョーダンもバードも迷いが消えた。
 こうして実現したドリームチームは、圧倒的大差で優勝。ジョーダンは星条旗を肩からかけて金メダルを受け取り、表彰台の上でマジックと共に喜びをわかち合った。
 ちなみにマジックはいまでも実業家として健在だ。
 NBAで6つの優勝リングを勝ち取ったジョーダンは後年、こううそぶいた。
「あの五輪で得たいちばん大きなものは、なんといってもチームメイトたちの弱点を知ってしまったことだな」
(スポーツライター・梅田香子)
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マジックは’91-’92シーズンのNBAの試合には一切出場せず、バルセロナ五輪決勝が引退試合となった
PHOTO:青木紘二/アフロ(1枚目) 日刊スポーツ/アフロ
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