六代目vs.神戸の抗争はどうなる? 山口組血と暴力の五十年史
2016.08.15
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山口組分裂抗争は、日を追って激しさを増している。そこで、ひとつの疑問が浮かぶ。なぜ山口組は抗争から逃れられないのか――。大阪戦争、中京戦争、山一抗争、西麻布事件……。山口組の血塗られた半世紀を検証し、分裂抗争の行方を探る。
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「なんじゃ、オラァ!」
 2月15日、東京・歌舞伎町に怒声が響いた。場所は新宿区役所のすぐ近く。迷彩服を着たスキンヘッドの男が数人の男に取り囲まれ、引きずり回されている。
「バキッ」「グシャッ」
 クツのツマ先なのか、硬いモノが肉にブツかる鈍い音が響く。数分間、暴行を加えたあと、男たちは走り去って行った。
「やられていたのが神戸山口組系、暴行を加えていたのが六代目山口組系の組員たちです。事件から1ヵ月後、警視庁は山口組系三次団体の組長ら4名を逮捕した。両団体への"警告"のつもりだったのでしょう。しかし、その後も抗争はエスカレートし続けている」(歌舞伎町に詳しい暴力団関係者)
 六代目山口組と神戸山口組の抗争が、激化の一途をたどっている。この歌舞伎町での事件に続き、27日にも足立区で組員襲撃事件が発生。29日には富山市で組事務所に火炎ビンが投げ込まれ、3月6日には水戸市で発砲事件が起こるなど、昨年8月の分裂以降、全国で衝突が多発しているのだ。
 3月7日、警察庁は現状を「対立抗争状態」と認定。集中取締本部を設置して取り締まりを強化しているが、傘下約60団体・組員1250名の六代目山口組と、傘下約20団体・組員500名の神戸山口組の骨肉の争いは、容易におさまりそうもない。山口組そのものが、「血と暴力」を表看板にのしあがってきた組織だからだ。
山口組トップを狙った
京都「ベラミ事件」の衝撃
 血で血を洗う山口組抗争五十年史は、いずれもほぼ内部抗争から拡大している。だが、他団体からケンカを売られて山口組が買った抗争がひとつだけある。「大阪戦争」がそれだ。『実録 異端者(おとこ)たちの最期』(徳間書店)などの著書がある、ノンフィクション作家の山平重樹氏が解説する(以下「 」内は山平氏の発言)。
「抗争は大阪市西成の博徒組織・松田組が、自分の賭場を荒らした山口組系佐々木組の組員3人を射殺し、1人に重傷を負わせた昭和50年7月の事件から始まっています。当初、山口組の動きは鈍かった。そんなとき、三代目山口組の田岡一雄組長が『最近、ミチはゴルフばかりしとるらしいのう』と側近にぼやいたという話が広まったのです。ミチというのは、自分のところの組員を殺された佐々木組の佐々木道雄組長です。『ミチは何をしとるんだ』ということです。そこで佐々木組の組員が報復に動き、大阪の電気街・日本橋で買い物の最中だった松田組系大日本正義団の団長を射殺。これで"血のバランスシート"が取れた形になり、抗争は終結に向かうと思われた。ところがそうはならなかったのです」
 団長を殺された大日本正義団には、鳴海清という幹部組員がいた。団長の遺骨をかじって山口組への報復を誓ったと伝えられる鳴海は、狙いを佐々木組長ではなく、トップである田岡組長に絞り、じっとチャンスをうかがった。そして事件から3年後の昭和53年7月11日、京都市三条駅前のクラブ「ベラミ」を訪れた三代目を襲撃した。世にいう「ベラミ事件」である。
「鳴海は両手で拳銃を構え、田岡組長目がけて2発発射しました。1発は田岡組長の首筋を貫通しました。当時、医者は『弾が1ミリでもずれていたら助からなかった』と。奇蹟的に一命をとりとめたのです。ただ、貫通した弾と、もう1発の弾により、その場にいた無関係の客2名が重傷を負いました」
 鳴海はそのまま地下に潜伏。複数の新聞社に手記を送り、田岡組長の被弾は「天罰だ。必ず思い知らされる時が来るぞ」などと山口組を挑発した。組長を襲われた山口組は、ただちに報復に打って出、松田組の幹部らを銭湯や路上などで次々射殺。53年9月に鳴海の死体が神戸市六甲山中で発見されるまで、抗争は3年4ヵ月にも及んだ。鳴海をかくまったのは、反山口組色の濃い西日本暴力団の親睦団体「関西二十日会」系の組といわれている。鳴海のあまりに尊大な振る舞いに手を焼き、自分たちの手で殺害したという説が有力だ。
「真犯人は捕まっていません。鳴海の遺体は手の爪が剝がされるなど、ひどいリンチを受けたことが歴然で、顔は腐乱して白骨化しており、人物の特定に手間どりました。鳴海とわかったのは、背中の天女の刺青と、腹巻の中にあった家族の写真からです。抗争といっても、ほとんど山口組の一方的な攻撃に終始し、終結宣言も山口組がマスコミを田岡邸に集めて一方的に発表しています。手打ちではありません。松田組など組織として認めていないということです。実際、当時のマスコミは『巨象とアリの抗争』と書いていました」
 松田組から死者8名、負傷者3名を出した3年余に及ぶ「大阪戦争」は、こうして終結した。それから3年後の昭和56年、田岡組長が心不全で死去する。山口組は跡目をめぐる内部抗争を抱えつつも、四代目・竹中正久組長の新体制に移行していくのだが、その前に注目すべき抗争が勃発していた。「中京戦争」である。
 この「戦争」は中京地区の地元暴力団同士による縄張り争いであり、山口組が乗り出して直接関与したものではない。ただし、この抗争が、結果として山口組による中京地区の制圧を招き、やがては今日の山口組分裂の遠因になったという点で重要な意味をもっている。
戦後最大にして最悪
市民も巻き込んだ「山一抗争」
 昭和55年、愛知県津島市で、中京浅野会と瀬戸一家侠神会による縄張り争いが勃発し、侠神会側に1名の死者が出た。ついで昭和58年にも、両組が名古屋のクラブのカラオケの順番を巡っていさかいを起こし、複数回のカチコミで組員4人の負傷者が出た。
 その後、愛豊同志会の河澄政照総裁が仲介して和解に動いたが、和解に納得しない侠神会組員が河澄総裁を射殺。双方でカチコミが相次ぎ、瀬戸一家、中京浅野会双方の組員約150名が逮捕されるという、中京を揺るがす前代未聞の抗争事件に発展した。
 河澄総裁の射殺後も、旧愛豊同志会組員が瀬戸一家の前総裁を射殺するなど、血なまぐさい抗争が繰り広げられたが、その後、抗争終結の動きが出て、瀬戸一家、平野家一家、稲葉地一家、導友会、運命共同会からなる「中京五社会」という親睦団体でまとまり、事態修復が図られた。ここで山口組が登場してくる。
「名古屋はヨソ者を入れないモンロー主義で、反または非山口組の地元ヤクザがほとんどでした。そこに入っていったのが、田岡組長の企業舎弟だった鈴木組から派生した弘田組。その弘田組の若頭だったのが現在の司忍六代目です。司氏は配下に命じて対立組織の大日本平和会に乗りこませ、同会幹部を斬り殺させるなど、中京を震えあがらせました。13年間の服役後、出所して弘道会を興し(昭和59年)、四代目・竹中組長から盃を受けて弘道会を山口組の直参(直系組織)に昇格させています。この弘道会が、元来モンロー主義だった中京地区を力で切り崩し、まとまりを失った中京五社会は自壊して、ほとんどの組織が山口組傘下に入るのです。結果、中京浅野会、平野家一家、稲葉地一家などが弘道会の傘下となり、瀬戸一家と平井一家は山口組の直参となっています」
 かくして司による中京地区の統一は、平成3年に完結する。名古屋を核とする中京地区の弘道会一強体制は、こうしてできあがった。その間、山口組は、三代目の跡目をめぐる激烈な抗争で日本を震撼させることとなる。組を二分した「山一抗争」である。
「警察をして『戦後ヤクザ抗争史上、最大にして最悪』と言わしめ、ヤクザの歴史を変えた抗争です。暴対法は、この抗争がきっかけで生まれたものです」
 昭和56年の三代目死去の後、組長代行には山本広・山広組組長、No.2の若頭には山口組若頭補佐だった竹中正久が就いた。組内は山広派と竹中派に割れて激しく反目しあったが、「実質的なドン」として君臨する三代目姐・田岡文子未亡人の強い意向により、四代目には竹中が就任した。これを不服として山広派が山口組を脱退。昭和59年6月、山本広を会長とする「一和会」が結成された。
「山口組は、"不逞不遜の輩"である一和会とは今後いっさいつき合わないでもらいたいという趣旨の『義絶状』を各団体に回しました。『破門状』ではありません。破門は、盃を受けた者に対する処分ですが、山本広ら山広派は、三代目から盃を受けた三代目の直参であって、四代目竹中組長の盃を受けていない。だから『義絶状』なのです。この『義絶状』を出したことが、四代目暗殺につながった大きな理由ともいわれています」
 昭和60年1月26日、吹田市の愛人宅マンションを訪れた竹中四代目、中山勝正若頭、護衛役の南力・南組組長が、待ち受けていた一和会のヒットマンの襲撃を受けた。中山若頭と南組長はその場で絶命、銃弾3発を受けながらどうにか脱出した竹中四代目も、翌日入院先で死亡した。この暗殺が引き金となって、両組織は全国規模の山一抗争に突入するのである。
 反撃のノロシは、射殺された中山若頭が率いていた高知の豪友会によって上げられた。豪友会組員が一和会系中井組の組員3人を高知市営競輪場で取り囲み、2人を射殺、1人に重傷を負わせた。その後も凄惨な報復と反撃が全国で頻発する。拉致監禁、リンチ、問答無用の射殺などが相次ぎ、鳥取県倉吉では女装した竹中組系組員が、ホステスに化けて一和会幹部をスナックに呼び出し、その場で幹部とおつきの組員を射殺するという事件も起こしている。
 襲撃は組員自宅、組事務所、喫茶店、路上など、24時間、時と場所を選ばずに行われた。昭和63年5月には、山本広会長宅に大型ダンプカーで突っ込んだ山口組系組員らが、警備の機動隊と銃撃戦を展開し、会長宅に爆弾を投げつけるという、あってはならない事態まで起きた。
 足かけ6年に及ぶ長い抗争に終止符が打たれたのは、平成元年3月。稲川会と会津小鉄会が間に立って山本会長と山口組最高幹部の会談がもたれ、山本会長の引退と一和会の解散を条件に手打ちが行われた。
 この間の死者は、山口組、一和会双方合わせて29名(竹中組長ら3名を含む)、負傷者66名。抗争件数は317件に及び、関係する逮捕者は560名を数えた。抗争当事者以外にも、一般市民や警察官から負傷者4名を出すという、まさに「戦後ヤクザ抗争史上、最大にして最悪」の抗争だった。
「山口組と一和会は、もとは同じ釜の飯を食った者同士。それだけに、ウラミ骨髄の凄惨な争いになったのです」
 大阪戦争をのぞいて、山口組の大きな抗争は身内同士の争いから端を発するケースが多い。身内同士の争いという抗争パターンは、竹中四代目の跡を継いで五代目となった渡辺芳則組長の代にも勃発した。「宅見勝若頭暗殺事件」である。
 四代目の選出に続き、五代目の選出もモメにモメた。若頭の渡辺芳則を推す派と、ライバルである中西一男組長代行を推す派による激しい多数派工作が水面下で展開されたが、渡辺サイドによる説得と利益誘導が奏功し、最終的には中西が立候補を取り下げることで、渡辺五代目が船出した。このとき、渡辺擁立に動いて顕著な功績のあった若頭補佐の宅見勝が、山口組No.2の山口組若頭に就任した。
 暴対法が施行されたのは平成4年3月。山口組は暴対法対策として、抗争の恩賞である「戦勲金メダル」贈与の廃止、抗争の自制、企業テロの禁止、ケンカにおける拳銃禁止令などを相次いで傘下組織に通達した。が、平成8年7月、京都八幡市内の理髪店で、山口組若頭補佐の中野太郎・中野会会長が会津小鉄会系の組員らに襲われ、銃撃戦の末に中野会組員がヒットマン2名を射殺するという事件が勃発した。
 抗争を嫌った山口組と会津小鉄会は、その夜のうちに話し合いを持って、手打ちにした。この決定は、宅見若頭の主導で行われたという説が有力である。その翌年8月、神戸市内のホテルで歓談していた宅見若頭が、4人のヒットマンに襲われ、7発の銃弾を受けて死亡。隣のテーブルにいた一般市民も頭部に銃弾の直撃を受けて死亡するという事件が勃発した。
山口組の関東進出の橋頭堡(きょうとうほ)
「西麻布事件」組長自殺のナゾ
 事件は手打ちに不満の中野会が起こしたものと見て、山口組最高幹部会は中野会長の「破門」を決定。その後「絶縁」へと処分を強め、兵庫県警も「中野会による組織的犯行」と断定して実行犯の逮捕に乗り出した。中野会は処分を不服として独立を宣言し、ここから全国各地で中野会に対する報復事件が続発することとなる。
 暴対法対策として、山口組本部は中野会関係先への発砲を「厳禁」し、「いっさい手を出すな」と傘下団体に通達したが、暗殺事件の総指揮役とみられていた中野会幹部が潜伏先の韓国・ソウルで変死し、宅見組の暗殺部隊が京都で中野会系組長を銃撃するなど、抗争は各地でやまず、中野会No.2の副会長とNo.3の若頭も射殺された。山口組のほぼ一方的な報復に終始した抗争は、中野会長が大阪府警に引退と解散届を出した平成17年8月に終息した。
 渡辺五代目は中野会との抗争が終結した平成17年に引退し、渡辺体制で若頭を務めていた弘道会の司忍組長が六代目を襲名した。この司六代目のもと、三代目からの悲願だった山口組の関東進出が進められる。その過程で起こったのが、「西麻布事件」だ。関西は「力がシマ(縄張り)」という考え方だが、関東は力でシマを奪うという考え方をしない。シマに関しては、お互いに争わないという不文律がある。銀座、六本木は、工藤和義会長が率いる國粋会がシマとしており、それを住吉会への"貸しジマ"にして共存していた。他方、工藤会長は司六代目から舎弟盃を受けた山口組傘下だったため、銀座、六本木は山口組のシマでもあった。
「平成19年2月5日の午前10時過ぎに西麻布4丁目の路上に駐車していたセンチュリーに、ヘルメット姿の男2人が近づき、スモークガラス越しに銃弾3発を発射して、後部座席の住吉会系小林会直井一家の杉浦良一組長代行を射殺するという事件が起こりました。事態収拾のために山口組幹部がただちに上京し、住吉会の幹部と和解しています」
 襲撃事件からわずか10日後、國粋会の工藤会長が自宅でナゾの拳銃自殺を遂げている。襲撃した犯人として警視庁が逮捕したのは、國粋会系の組幹部2人だが、事件の動機や背後関係はいまだ明らかになっていない。國粋会系の組関係者は、こう漏らす。
「國粋会は山口組のような親子盃で結ばれたピラミッド型の組織ではなく、横並びの連合体だった。工藤と連合体総長の間には親子の関係はなかったんだ。ところが工藤は、國粋会を山口組のような組織に改編しようとした。3名の総長が拒否したため、工藤は3名を破門や絶縁にしたんだ。そこで山口組が乗り出し、3名の総長を引退させたうえで、それぞれの一家を國粋会に復帰させ、一家のシマはすべて國粋会預かりとした。つまりは山口組のシマにしたわけだ。結果として、工藤はそれらのシマを山口組に売り渡した恰好になる。山口組は濡れ手に粟でシマを手に入れたわけだ。このことを苦にして、工藤は自殺したとみている」
 暴対法が施行された平成4年、健在だった宅見若頭は兵庫県警本部で開催された聴聞会に出席し、「山口組は暴力団ではなく任侠団体である」との意見書を読み上げている。けれどもこれら抗争事件にはっきりと表れているとおり、その実態は、利権に群がり、血と暴力でパイを奪い合う「暴力団」にほかならない。
 この不毛な抗争が、また始まっている。六代目山口組と神戸山口組の抗争が「山一戦争」規模に発展すれば、市民からの犠牲者が出るのは必至だ。監視の手を緩めてはならない。
(文中一部敬称略)
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ベラミ事件が起きた、京都のナイトクラブ「ベラミ」の店内
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山口組の中興の祖、田岡一雄三代目。文字通り「首の皮一枚」で一命をとりとめた
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昭和53年11月、山口組が田岡邸で大阪戦争の終結を一方的に宣言。右から山本広若頭補佐、山本健一若頭、小田秀臣若頭補佐
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ナゾが多い自殺を遂げた國粋会の工藤会長の葬儀。祭壇は錚々たる面々の献花で飾られた

年表で見る「山口組の血と抗争」
昭和50年7月 大阪府豊中市の喫茶店で松田組系組員が山口組系組員3名を射殺。大阪戦争が始まる

昭和53年7月 田岡一雄三代目が、京都のナイトクラブ「ベラミ」で鳴海清に撃たれ、重傷を負う

昭和60年1月 竹中正久四代目が、大阪府吹田市内のマンションで撃たれ、死亡。山一抗争が激化する

昭和61年12月 福岡で、山口組系組長らが対立していた道仁会系組員₃名を拉致監禁。山口組と道仁会の抗争が始まる

平成元年6月 竹中組が、渡辺芳則の山口組五代目就任に反発して山口組を離脱。抗争勃発

平成3年1月 中京戦争が激化。名古屋市内の路上で運命共同会鉄心会の組員が撃たれ、重傷。鉄心会と山口組系弘道会の名古屋抗争が始まる

平成5年7月 札幌で山口組系組長が極東会系組員に刺殺され、山口組と極東会の抗争に発展。12都道府県で41件の発砲事件が発生

平成8年7月 京都の理髪店で、山口組の中野太郎若頭補佐を会津小鉄会系組員6名が襲撃。銃撃戦となり、会津小鉄会系組員2名が死亡

平成9年8月 神戸市中央区のオリエンタルホテルで、山口組の宅見勝若頭が襲われ、射殺される。歯科医の男性が流れ弾に当たり、死亡

平成19年2月 西麻布事件が発生。東京・西麻布で、山口組系國粋会組員が駐車中の車へ窓越しに発砲、住吉会系小林会幹部を殺害

平成27年8月 山口組が分裂。山健組の井上邦雄組長を始めとする離脱組が「神戸山口組」を名乗る

平成28年2月 六代目山口組と神戸山口組の抗争が激化、歌舞伎町で暴行騒動が起きる。六代目山口組系三次団体の組長ら4名が逮捕される
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