ジャニーズに本気でケンカを売った男〜村西とおるのナイスな闘い〜
2016.08.17
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SMAP"公開処刑"の28年前、同じ場面があった…

ながく芸能界の覇者として君臨し、存在自体がタブーになっているジャニーズ。そんな帝国にひとりタンカを切った怖いモノ知らずの男がいた。トップアイドルの大スキャンダルから衝撃の暴露本出版まで、日本中を驚かせた"村西劇場"のすべて
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「トシちゃんとしちゃったの」
すべてはこのひと言から始まった
 今年1月に発覚したSMAP独立騒動で、いままでほとんど表に出てこなかったジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長とその娘、藤島ジュリー副社長の存在がにわかにクローズアップされ、絶大な力を誇っていることが証明された。
 ここに一人の怒れる男がいる。
 今回のSMAP騒動が起きるはるか28年前、1988年春、メリー喜多川副社長、娘のジュリー氏と激しく対峙したのが、AVの帝王と呼ばれる村西とおる監督であった。
「航空会社が経営してた沖縄のホテルで撮影して、夕飯のときに何気なく主演の梶原恭子が『こないだわたし、トシちゃんとしちゃったんだ』って、もう何気ない話なのよ。おれはその横で『あーそうなんだ。どうだった?』って聞いたのよ。楽しかったの? みたいに聞き流してたの。でも途中から、あれ? その話って面白いんじゃないかって。『また撮影するときに、その話あなたしなさいよ』と言ったら、『うん、わかった』って。それで何気なくしゃべったの。そんときはあんまり意識してないんですね」
 このときの作品は村西監督らしい、便所の落書き的なタイトル『顔にベチョッとください』(クリスタル映像、’88年)としてリリースされた。
 梶原恭子の告白をもとに、村西監督はあらたに第2弾『ありがとうトシちゃん』(同’88年)という人を食ったような作品を制作した。
 村西流悪ノリで、トシちゃんと梶原恭子が関係をもったとされる金沢の夜を、当の梶原と男優が再現した。パッケージコピーも刺激的だ。
〈トシちゃんのアレが私の中をズボッたの‼〉
〈大きさは普通以上かな? でも色がきれい〉
〈バック、騎上位、いろんな形で……〉
〈たまらなくなってイッてしまったの。恭子の私生活に登場したトシちゃん〉
 田原俊彦といえば’80年代前半、近藤真彦、野村義男とともに、たのきんトリオとして最大のアイドルとなりジャニーズ事務所の屋台骨を支えてきた。トシちゃんは『教師びんびん物語』をはじめ、映画『課長島耕作』で主演をはるなど、歌に踊りにドラマに他の追随を許さぬビッグな存在だった。梶原はトシちゃんの追っかけをしていて、金沢のコンサートで見初められ、その夜に関係を持ったというのだ。
「おれが当時、日本テレビ系『11PM』のレギュラーで出てたんだよ。『監督、今度はどんな作品ですか?』って聞かれたから、『ありがとうトシちゃんだよ』って言ったら、『あー、面白いですね』ってウケたのがテレビにバーンと出たわけ。そしたらさ、大騒動になったわけよ。次の週にスタジオに行ったら、ディレクターたちの姿が見えないんだね。『監督も今週で(出演は)けっこうです』って話になっちゃったわけ。聞いたら日本テレビの幹部のところに、メリー喜多川からクレームがきてたんだって。それでディレクター2人がクビになっちゃったわけ。これは許せないなと思ったよ。弔い合戦しなきゃいけないなっていうことで、今度は週刊ポストがそれを書いたわけ。『面白いですね監督、いきさつを聞かせてください』と」
「〈衝撃の告白〉ビデオギャル梶原恭子 有名アイドル歌手Tは私の口の中で"筋骨隆々"となった」(週刊ポスト’88年4月8日号)
 田原俊彦は「T」というイニシャルではあったが、当のジャニーズ事務所がこの記事に猛烈な抗議をおこなった。
「小学館の重役室だか会議室だかに抗議に来たもんだから、小学館側から、『ジャニーズが引かないんです。困ったことになってます』とおれに言うんだね。『小学一年生』とか学年誌があるでしょ。あれにジャニーズのタレント使ってるから、そっちから突き上げがきちゃって、ポストとしても困ってて、梶原恭子の話が事実かどうか対面してもらえませんかというわけ。『いいよ』ってことになって、おれは梶原恭子連れて小学館に行ったわけですよ。30坪はあるだだっ広い会議室にね」
 発行元の小学館にメリー喜多川副社長、ジュリー氏、白波瀬傑広報部長、そしてなんと田原俊彦本人が乗り込んできたのだった。
 村西とおるが当時の記憶を掘り起こし、ジャニーズ側との対決場面の配置図を記した。机をはさみ、村西とおる側から見て、右端に田原俊彦、隣が白波瀬傑部長、その左にメリー喜多川副社長、そしてジュリー氏。対する村西側は、村西の右隣に梶原恭子。横には少し離れて出版社の幹部3名が同席した。
「まあこっちも相手にとって不足はないよね。メリー副社長はこんなこと書きやがってと、もうカリカリしてたよね。トシちゃんも、トシちゃん自身を演じちゃって、あの口調で『僕はこの子と寝てなんかいないよ』と言うんですよ。この期に及んでまだトシちゃんしちゃってるんだからね。恭子だって負けちゃいないよね。やった、いややってないって、天下の大出版社で言い合うんだよ(笑)。おれはそんなことどうでもいいだろうと思って、『田原君ね、きみも男だし、この副社長連中のいる前できみはね、やりましたとは言えないだろうけども、黙ってたらいいんじゃないのか』って言ったんだ。うつむいてたよね。そしたらメリー副社長がカチンときたんだね。『ジュリーさん、呼びなさいよ、呼びなさいよ!』って言うんだよ。で、目くばせしたら、『ハイッ!』ってジュリーが扉を開けたの。そしたらバタバタッと隣の部屋から7〜8人の血相を変えた若い女たちが入ってきたわけ。トシちゃんの親衛隊みたいなファンたち。それが梶原に向かって、『あんた、コンサート会場になんかいなかったじゃないのよ! ウソつき女!』ってゴーッとしゃべるわけ。あの母は、娘に(外敵の)しばき方を教えないといけないと思ってるんだね。娘への英才教育、こうやって敵を打ちのめすんだ。お母さんは、ああやって平伏させたでしょうっていう後継者教育なんだろうけどさ、上手の手から水漏れだよ。おれは関係ないから。圧力受けてテレビ干されようがなにされようが。おれはケシ粒のように飛んでいくだろうと思ったんだろうね」
 所属タレントの名誉を守るために、トップが体を張るというのも、後のジャニーズ事務所興隆の大きな原動力になったのだろう。
 その一方、SMAP騒動と’88年の抗議活動は似ている側面があると村西は分析する。
「事務所は自分のタレントのために体を張るのは当たり前。でも抗議先までタレントを連れていかないよ。あのころ娘のジュリーと田原俊彦がつきあっていたとおれは聞いてる。母親も、娘が(田原を)好きなら一緒にさせるしかない、と思ったんだろうけど、あれを亭主にするのはねえ……。人の上に立つポジションはもっとしっかりした人じゃないとと思ったんだろうね。メリー副社長は、マッチを寵愛してるからね。わたしのマッチはどうするんだってことですよ。ともかくここでトシちゃんを一発ぎゃふんとさせないと。あの場にトシちゃんを連れてくるのがメインテーマだった。ジュリーにしてみたら、トシちゃんが追っかけと寝たなんてこと、信じたくない。だからわたしに証拠見せてちょうだいって思いですよ。だからね、あのとき、メリー副社長は『この機会にトシちゃんを放逐してマッチを帝国の№1にしよう』という思いを巡らせていたんですよ。メリーはマッチがかわいくてかわいくてしようがないんだから。トシちゃんも家に帰って、『おれはなんであそこに引きずりだされてしまったんだろう』って悔し涙流したと思うよ」
 やった、やってないの水掛け論を会議室でやっている間、同席していた田原俊彦は、公開処刑されたような気分だっただろう。まさしく今回のSMAPが担わされたテレビでの謝罪と同じ状況下にあったのではないか。
 ジャニーズ事務所のメディアにおける影響力は絶大なものがあり、当時からいまも弟のジャニー喜多川社長よりも姉のメリー喜多川副社長のほうが強硬派のようだ。
 後に田原俊彦はジャニーズ事務所を離れ、近藤真彦はジャニーズ事務所最年長として、いまも君臨している。
 メリー喜多川副社長と親衛隊に面罵された村西とおるはその後どうしたか。
 すべてをスラプスティック(どたばたギヤグ)劇のように演出するのがこの男の真骨頂。ジャニーズに復讐するための全面戦争を呼号した村西は、『ジャニーズ事務所(秘)情報探偵局』を開局した。まだSNSがない時代、電話回線を1本引き、全国からジャニーズ事務所にまつわるスキャンダル情報を集めようとしたのだった。留守録のメッセージは村西本人が例の甲高い声で吹き込んだ。
「ハーイ! こちらはジャニーズ事務所(秘)情報探偵局です! 探偵局ではいま、ジャニーズ事務所に関するあらゆる情報を集めています。ナイスな情報を教えてくれたきみに、1000円から1000万円までの賞金をお贈りいたします。さあ、思い切ってきみだけが知っているジャニーズ事務所に関する情報ぜひ話してください。ブーッという音が鳴ります。そしたらきみの連絡先も忘れずにね。さあ、いいかな……いくよぉ……レッツゴー!」
 タレコミ情報よりも、こんな声ばかりが吹き込まれた。
「何がレッツゴーだ、バカ野郎!」(中年男性)
「バーカ。そんなことして何が面白いの。死んだほうがいいんじゃないの」(10代少女)
「おい、村西、聞いてんのかよ。わかってんのかよ。その敬語やめろ!」(20歳前後の青年)
「なにがナイスよ! ひどいんじゃない。トシちゃんをいじめて何が面白いの」(10代少女)
「ジャニーズ事務所をいじめるのやめてください。アイドルのプライバシー侵害するのはいけないと思います。絶対にやめて。わたしたち、みんな怒ってます」(20代前半の女性)
「黒木香の声聞かせろ!」(50代男性)
「村西さん、わたしとテレフォンセックスしてちょうだい」(欲求不満気味の人妻)
 なかには関係者らしき若い男性からの情報も混じっていた。
「ジャニーズ事務所にAっていう40代の女性がいるんです。彼女は総務を担当してるんですが、事務所の実力者でメリーさんに気に入られている。メリー賞というのがあって、その年に仕事をがんばったスタッフに賞が贈られるんですが、たいていAさんがもらっています。でも彼女はスタッフの間では煙たがられているんです」

元フォーリーブス北公次の
暴露本出版と復活ライブ
 全盛期だった光GENJIに関するスキャンダルも複数あったが、村西とおるが食いついたのは、元フォーリーブスのリーダー、北公次が食い詰めて和歌山県田辺市に蟄居しているという情報だった。過去にジャニー喜多川社長とつきあっていたという情報もあった。
 北公次はフォーリーブスのメンバーとして紅白歌合戦連続7回出場、初期ジャニーズ事務所を支えた最大の功労者であった。
 さっそく村西とおるの部下、通称サンドバッグ軍団の一員、Y助監督が北公次の居所を突きとめに向かった。
 幸運にも居場所を突きとめると、村西とおると引き合わせた。北公次は村西から自叙伝の執筆を勧められた。最初は渋っていた北公次だったが、村西の熱心な説得で禁断の半生を綴り、『光GENJIへ』(データハウス刊)という自叙伝を世に出した。
 北公次といえば、無口で野性的、初めてステージでバック転を披露したアイドルとしてその名を刻んでいた。修業時代の北公次はジャニー喜多川社長と一緒に暮らし、芸名の「北」は、ジャニー喜多川の「喜多」をもらったものだった。初代ジャニーズが解散し、人気アイドルがいないジャニーズ事務所は冬の時代で、明日のスターを夢見て支え合うふたりは、青春物語の実践者であった。北公次の告白は、世間的にはジャニー喜多川社長との深い交際関係に興味が集中し、北公次衝撃の自叙伝はたちまちベストセラーになった。
 稀代のエンターティナー、村西とおるはいつしか復讐を忘れ、忘れ去られた元アイドルをもう一度復活させようと、北公次再生プロジェクトを企む。それが北公次マジシャン計画だった。
 手品用の小鳩30羽、人体浮遊用機材、その他マジック用小道具、北公次の住まい等々……数千万円を投資した。
 当の北公次にしてみたら、ロックミュージシャンとして再起を期したつもりだったのに、鳩を懐から出したり、空中浮遊をしたりという世界は気乗りのしないものだった。マジシャンの練習に耐えかねて、村西が借り上げてくれた部屋を脱走して、両者の縁は切れてしまう。
『光GENJIへ』の版元、データーハウスの編集長が、本の売り上げの一部を北公次復活ライブの費用にあてることになり、滋賀県や三重県に住むベテランの実力派ミュージシャンがバックを務め、北公次&スカーフェイスというバンドとしてライブ活動をやることになった。
 1989年1月25日、ライブハウス・渋谷エッグマンは北公次復活をこの目で見ようと立ち見客であふれかえった。
 楽屋で北公次は一升瓶をかたわらにすでに酔い、部屋の片隅には別れた女房と幼子がいた。
 楽器と音響機材に占領された狭いステージに大音量が鳴り響く。黒いスーツにサングラスの北公次が登場した。「地球はひとつ」「ブルドッグ」を歌っていたころの声質は消え、しわがれ声に変貌していたが、塵労にまみれて生きてきた男の凄みが感じられた。
 4曲目にさしかかるころ、客席の後方にスーツを着た男が現れた。村西とおるだった。かたわらの花束をもった女性は、ロマンポルノに出演し人気を博し、村西監督作品にも出演した青木琴美だった。
 北公次が村西とおるをステージに招いた。
 決別した二人がカクテルライトに照らされて握手をした。
 ライブが再開する。
 北公次がサングラスを投げ捨てると、突然、後方の宙に舞った。不惑に届く元アイドルのバック転は、カクテルライトを切り裂き着地した。フォーリーブス時代によく披露していたあの華麗なバック転だった。ステージの横で、北公次を探しに紀州・田辺まで遠征し居どころを突きとめた助監督のYが泣いていた。
 一人のAV女優の何気ないひと言からはじまった騒動は、多くの人々を巻き込み、芸能界、メディアの一大スキャンダルへと発展し、一人の元アイドルを復活させた。自身にかかわったことすべてを大河ドラマのようにしてしまう村西とおる狂気の演出だった。
「自分自身がそういう性格なんだから仕方がないよね。前に前にいっちゃうんだよね。そういうことがなければ、AV監督っていうのはやれない仕事だったんだね。意気地なしだったり臆病だったり引きこもっていたら、やっていけない仕事だったから。ふっと気がついたらさ、自分自身がこの業界を背負っていくみたいな、第一人者みたいな、そんな意識が芽生えちゃった。だれにも頼まれてもいないのに、AV業界の名誉をかけてみたいな気持ちになっちゃうんですよ。AV業界の人間をバカにしてんのか、みたいなね。そういう感覚になるわけですよ。あのときは金銭的にジャニーズ事務所と互角だったから(笑)。いまならいい指輪してるなあ、仲よくしましょうメリーさん、だよ(笑)」
 村西とおるの放漫経営がたたり、自身の会社、ダイヤモンド映像グループは50億円の負債を抱え倒産した。以後、20年以上にわたり借金返済の日々を送り、いまに至る(借金はほぼ返し終わったとは本人の弁)。
 北公次は2012年、肝臓ガンで帰らぬ人となった。享年63。北公次を探し尋ねた助監督のYもまた一昨年夏、45歳で病死した。
「どうなの? 講談社は。調子いいんでしょ。FRIDAY編集部は出世コースなんでしょ。素晴らしいねえ。ナイスだね!」
 事務所を訪れた若手編集者にエールを送ると、67歳の男は来し方行く末に思いをはせるかのように彼方を見つめるのだった。

取材・文/本橋信宏

もとはし・のぶひろ/’56年埼玉県生まれ。文筆家。代表作に『裏本時代』『修羅場のサイコロジー』『やってみたら、こうだった』など。近著に『迷宮の花街 渋谷円山町』、昨年12月には『エロ本黄金時代』を上梓
PHOTO:濱㟢慎治 原 一平
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