スポーツは人間ドラマだ! 第105回 プロ野球80年の歴史で15回だけの奇跡 槙原寛己「完全試合」を決めた「締めの一球」
2016.08.29
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’94年5月18日
巨人対広島
(福岡ドーム)
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’01年の引退まで、この試合のときの感覚が甦えることはついになかったという。「究極だったんだろうと思いますね」(槙原)
「私は精神的に脆いと言われることが多かったのですが、あの試合だけは最初から、引いた目で自分を見ることができたんです。普段だったら、誰かがエラーしたら苛立ってしまうのですが、あの日は『また次に頑張ればいいや』と思っていました。『三塁が(長嶋)一茂(28、当時=以下同)で不安じゃなかったか』とよく聞かれますけど(笑)、そんなことはありませんでした」
 ’94年5月18日、福岡ドームで完全試合をなしとげた槙原寛己はこう当時を振り返る。巨人軍入団から13年目の30歳。前年の’93年に自己最多13勝を挙げ、シーズン終了後にFA宣言したが、エース格の流出を恐れた長嶋茂雄監督(58)に背番号と同じ17本のバラで慰留され、日本人初の複数年契約を結んでいた。
「ブルペンでは、球速はあったんです。でも、コントロールしきれているかが不安だった。いつもなら、球が速かったらスピードで押していこうと考えるのですが、この時はふと、スピードを抑えて丁寧に投げようと思ったんです」(槙原=以下同)
 前半はストレートで押し、後半は変化球を多用するという戦略に、広島打線が見事にハマった。
「同期入団で同い年のキャッチャー・村田真一(30)とは若いころから組んでいるので、お互いの呼吸がわかっているんです。あの試合でも一回もサインに首を横に振っていないんじゃないかな。投げたい球と欲しい球が一致していたんですね。
 完全試合を意識したのは、5回2アウトの場面。金本知憲(26)のピッチャーゴロを捕球して、ファーストに投げるときでした。『これでもし暴投したらエラーになって完全試合が途切れるんだよな』とふと頭をよぎったんです。そうしたら送球がワンバンになっちゃって、少年野球みたいで恥ずかしかったですね」
 ファースト・落合博満(40)が危なげなく捕球し、アウト。このころから、福岡ドームは徐々に異様な熱気に包まれていった。
「6回くらいからアウトを一つ取るごとに球場が沸くようになり、回を重ねるとそれはどんどん大きくなっていった。巨人の選手も広島の選手もプレッシャーは相当あったと思います。ベンチに戻っても誰も話しかけてこないんですよ。長嶋さんだって目を合わせなかったからね(笑)」
 実況するアナウンサーまで、口にすると記録が途切れるというジンクスを気にして、「完全試合」という言葉を避けていたという。しかし、一人だけ異質な選手がいた。
「皆が遠慮して近づいてこないのに、キャッチャーの村田が8回の攻撃中、アンダーシャツを着替えているときにわざわざやってきて『(完全試合を)やるならやれよ』って言ってくれたんです。それで逆に肩の力が抜けました」
 完全試合まであと一人。打者は御船英之(27)。1ストライク1ボールのあと、槙原は勝負に出た。
「インハイに投げれば、空振りかポップフライになると思っていました。狙ったところに投げて狙ったとおりになったんです」
「ファースト」と槙原が声をあげ、村田がマスクを外して追う。打球は落合のミットに沈んだ。飛び上がった槙原に最初に駆け寄ったのは一茂、すぐに村田も抱きつく。遅れて長嶋監督がやってきた。
 この年、巨人は優勝し、槙原は長嶋監督に恩返しを果たすことができた。
 以降22年間、完全試合を達成した投手は一人もいない。
「誰にこの記録を達成してほしいか? ファイターズの大谷翔平ですね。完全試合というのは、フォアボールが大きなテーマなんです。ノーヒット・ノーランはフォアボールを出してもいいが、それができないからこそ完全試合は難しい。22歳と若くて完封が多い大谷選手は、十分チャンスがあると思うんです」
 槙原が期待を寄せる大谷は、完全試合達成と同じ年の、’94年7月5日に生まれている。(文中敬称略)
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0点が並びエラーも0のスコアボード。試合後のインタビューで槙原は「夢の中ですね」と語った
PHOTO:読売新聞社(2枚目)
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