スポーツは人間ドラマだ! 第116回 具志堅用高が語った「カンムリワシ誕生の物語」
2016.11.21
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’76年10月10日
WBA世界ライトフライ級
タイトルマッチ
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ステップワークで被弾しないポジションを取り、ジャブでグスマンの体力を削っていった
「作戦なんて何もない。キャリアがないから駆け引きはできなかったの。グスマンが倒れたから『よし、いまだ!』と思って休まずに攻撃し続けたから勝てた」(具志堅用高談=以下同)
 ’76年10月10日、当時21歳の沖縄出身の無名ボクサー・具志堅用高は"リトル・フォアマン"と評された世界ライトフライ級王者、ファン・ホセ・グスマン(25=当時、ドミニカ共和国)に挑んだ。グスマンは22戦21勝(15KO)のうち1ラウンドKO勝ちが11度。軽量級では図抜けたKO率を誇るハードパンチャーだ。対する具志堅はプロデビューからわずか9戦目で、日本タイトルの経験さえない。しかし、具志堅は冷静だった。2回、左ストレートを決め、右の返しでダウンを奪う。グスマンはロープの外まで叩き出された。
「ガードが下がる瞬間が何度かあり、左ストレートのタイミングは良かった。練習で何万回と打った左だから自信はあった」
 グスマンも必死に応戦した。3回、丸太のような腕から繰り出された左フックを浴びると、具志堅の腰はストンと落ちた。
「あのフックはバットで殴られたみたいだった。目の前が真っ暗になって星がチカチカした。15度の世界戦の中でいちばんのパンチだった。けれども、世界戦が決まってからの僕の練習は普通じゃなかったから」
 山中湖でキャンプを張り、走りに走った。立っていられたのはひたすら走ることで強靭な足腰を手に入れたからだ。
「見えないところでサボりながら走る真似はしなかった。苦しい時にこそ『沖縄のため、石垣のために世界王者になるんだろ』と自分で自分を励ましたんだよ」
 具志堅が上京して間もなく、アパートを借りようと不動産屋に行くと、「沖縄の人には貸していない」と断られたという。
「リングの上では貧しさも差別も関係ない。強いものが勝つ。それだけだよ」
 3回のピンチを耐えると、4回以降はワンサイドとなった。会場は具志堅を応援する声に包まれた。7回開始の時点でグスマンは"王者の誇り"だけで立っていた。具志堅は容赦なく左フック、右を突き上げ、跪(ひざまず)かせた。7回32秒、KO勝ち。
「会場に来たオヤジや同級生が喜ぶ姿が目に入ったね。故郷の石垣島ではラジオを聴いて僕を応援してくれたかなって」
 ’72年5月15日の本土復帰から、4年後の快挙。新王者となった具志堅は、故郷に凱旋した。
「沖縄では、どこに行っても皆で歓迎してくれてね。お袋はボクシングに反対していて、石垣島でのパレードの時に『おめでとう』と褒めてくれたけど、ボクシングで労ってくれたのは結局それ一回きりでした」
 具志堅がボクサーとして成長していったのは、ちょうど沖縄の日本への返還前後、復興時期にあたる。
「高2のとき山形県でのインターハイ出場が決まり、パスポートを準備したけど、大会中に返還となってパスポートがいらなくなり、船から海に捨てたんじゃないかな。『ナイチャー(内地の人)に負けるな』と言って先輩たちは戦ってきた。周りは僕たちを外国人でも見るような目で見てましたね。内地の高校生は皆怖がっていた。ただ、女の子からは『文通してください』とかなり手紙が来ましたよ。一回は返信したかな(笑)」
 具志堅の登場は、日本のボクシングファンに衝撃を与えた。石垣島に生息する猛禽類になぞらえて「自分はカンムリワシになりたい」と宣言し、世界戦で13度の防衛を果たした。沖縄から羽ばたいた稀代の天才ボクサー・具志堅の「カンムリワシ」伝説は、この一戦から始まったのだ。
(ライター・岩崎大輔/文中敬称略)
PHOTO:白井・具志堅スポーツジム提供
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