スポーツは人間ドラマだ! 第117回 15 歳で代表デビュー!天才セッター中田久美「超一流の人間観察力」
2016.11.28
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’80年11月28日
女子バレーボール
日中対抗
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小島監督(右端)の指示を聞く15歳の中田(左)と大谷(中央)
「中国はもっと凄いと思っていた。私の想像が強すぎた」
 幼い顔つきをした中田久美は、初めて対戦した中国をこう評した。’80年当時、女子バレーボール界で中国は"世界最強"と称される存在。中田はこの時、まだ15歳、中学3年生だった。
「天才」と謳(うた)われた稀代の名セッター・中田は、大谷佐知代(現・佐知子)とともに、史上最年少の15歳で日本代表入り。当時、中田のポジションはセッターではなくセンタープレーヤーで、「日中対抗」の第1戦に先発で起用された。
「はじめは緊張で何をやったのかもわからなかった」(中田)と言うが、中国のスピードに圧倒されながらも、ネット際でのボール処理や器用なバックトスに後の名セッターの片鱗を窺わせた。
 試合は0-3のストレート負け。プレー時間も短く、顔見せ的な意味合いが強いデビュー戦となったが、第3セットで大谷が交代で起用された時、中田は「どうして私をもう少し使ってくれないのですか」と涙を流しながら、ベンチで小島孝治監督(50=当時、以下同)に詰め寄ったというエピソードもある。
 この大会後、山田重雄総監督(49)は、中田にセッター転向を命じた。白羽の矢が立った理由は、まず両手利きだったこと。左手が自在に使えることは大きなアドバンテージとなる。また、デビュー戦での悔し涙に象徴される強気で負けず嫌いな性格。そして、174㎝の長身。バレー界の名将は中田の将来性を的確に見抜いていた。
 小柄なセッターがポーンと高いトスを上げていた時代に、中田のプレーは革命的だった。
 持ち前の手首の柔らかさを生かした左右への速いトス捌きと、「世界で私が初めて」(中田)という額よりも高い位置から上げるオーバーハンドパス。ロス、ソウル、バルセロナと3度の五輪に出場し、10年以上、コートの中心に君臨し、代表を牽引し続けた。
 セッターとしてプレーするうち、いつのころからか中田は人間観察が趣味になった。身体の動きだけでなく、そこから垣間見える心の動きまで、「あらゆるものを見ていた」と言う。試合中は、得点を挙げて味方が喜ぶなか、ネット越しに対戦相手を注視した。コートを離れても、味方選手のちょっとした仕草、箸の動かし方にまで目を凝らした。試合の日の朝は、起きた瞬間からチームメイトの顔色に目を配る。「最初の一本目のトスを誰に上げるか決めるため」だ。
 ’96年に引退したが、中田は監督としても成功した。久光製薬をV・プレミアリーグで3度、全日本選手権で4度の優勝に導いた後、’20年東京五輪に向けた女子日本代表の次期監督に内定している。超一流の観察眼を磨いてきた「バレーの申し子」は、指導者としての才能も証明しつつある。中田は「私は人に教えることもできる」と自信を持って語っている。
(フリーライター・矢崎良一)
PHOTO:産経新聞社
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