あなたは何をしていましたか。東日本大震災「日本が震えた日」
2014.03.11
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リメンバー3.11
2011年3月11日14時46分、国内観測史上最大の地震が発生し、かけがえのない命が多数奪われ、ふるさとは完全に破壊された。
あれから3年――たった3年。いまも26万7000人が避難生活を送っているというのに、多くの日本人は、着々と原発再稼働に進む政府の"暴走"を気にする風もなく、国民挙げて取り組んだ節電の日々を忘れたかのようだ。
当時、入社3年目だった本誌記者の見た惨状を読んで、思い出してほしい。あの日、あなたが何を感じていたかを。
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宮城県 気仙沼市
3月13日午前8時28分、変わり果てた気仙沼市の中心街に全長約60m、重さ約380tのマグロ漁船「第三明神丸」が打ち上げられていた。船は5月下旬に海へと戻され、8月に焼津港を出港した
Photo:郡山総一郎
 あれは、人ではないのか――。東京から車を走らせ20時間。福島県を過ぎ、宮城県南端の山元町についた私(本誌記者)の目に飛び込んできたのは、水田のあぜ道に横たわる泥だらけの遺体だった。
「消防団に『早く場所を移してやれ』って言ったんだけど、警察が来ないと触ることもできないんだって。かわいそうだよな、まだ中学生か高校生くらいだよ」
 近くにたたずんでいた地元の初老男性は、肩を落としてつぶやいた。
 地震発生から24時間以上経った3月12日の夕暮れ。同県名取市の閖上地区では津波で運ばれた泥水がたまり、倒壊した家屋からは火の手が上がっていた。あたりは船の燃料である重油とヘドロの臭いに満ち、まともに呼吸もできない。
 救助隊の活動は続けられているが、地面には、毛布が掛けられただけの遺体が何十体も転がっている。生存者の救出が優先されるため、遺体収容はどうしても後回しになる。それでは不憫だと、住民たちが毛布を掛けて回ったのだ。
 翌13日朝。気仙沼市は深い霧と煙に包まれていた。ここでも重油と焼けた木材、乾いたヘドロの臭いと加工場から流された魚の生臭さが鼻を突く。市街地だったはずの場所で、住民らが家財道具のうち、まだ使える物を必死に探していた。
 前夜まで重油が燃えさかり、炎の海となって市民を恐怖に陥れたという。気仙沼小学校に避難していた男性が語る。
「いろんなところで火の手が上がっては燃え続けた。ときには爆発音も聞こえた。炎がゆらゆら揺れて、本当に海全体が燃えているように感じた」
 もちろん携帯電話は通じず、バラバラに逃げた家族とも連絡が取れない。唯一の手がかりは避難所にある掲示板。多くの人がたびたびここを訪れ、掲示板を確かめては、また電波の入らない携帯電話を見つめる。誰も彼も疲れ切っていた。
 その後、私はすぐ隣の岩手県陸前高田市に移り、九死に一生を得たという商店主男性の話を聞いた。
「11日は、生まれて1ヵ月の子供のお宮参りでした。それを済ませ、妻の両親、私の両親と昼食を食べ、実家に帰る妻子と義父母を見送った後のことです。
 ビルの1階にある私の店にいると、ドンドンド~ン! と突き上げられるような衝撃がありました。ビル全体が縦にも横にも揺れる。店の商品が散乱しました。いったん揺れが収まったので、両親と弟を高台に逃がし、私は商品を片づけようとしました。その数分後、津波が来たんです。急いで上へ上へと階段を駆け上がって逃げました。高さ9mくらいの屋上に出るとゴーッという音。ハシゴを伝って貯水タンクの上まで上がりました。半畳分くらいのスペースに正座をしながら、見渡す限りの真っ黒い水に囲まれてハシゴを握りしめていました。
 あと10秒遅かったら、流木にぶつかっていたら、助からなかった。両親と弟も別の場所で助かりました。彼らが店に残っていたら全員が死んでいたでしょう」
 この13日から、ようやく各所の病院や集会所の屋上など孤立していた避難者の救助が行われ始めた。避難所に自衛隊のヘリが着くたび、再会を喜んで抱き合う人々の姿があった。
 一方、身元不明の遺体は小学校の体育館や集会所に集められた。宮城県東松島市野蒜のデイサービス施設で母親の遺体を発見した塗装業の男性はこう語った。
「地震発生時は、石巻で仕事をしていました。すぐに家に帰ろうとしたんですが、渋滞と冠水で、20km位の道のりなのに帰宅できたのは12日の午後3時でした。それから母を探して歩き回ったんですが見つからず……。自衛隊の人が見つけてくれたのが13日。今は安置所にいます。今朝も会いに行って『おばあ、おはよう。朝飯だよ』って話しかけてきました。あんまり親孝行できなかったから……涙が止まりませんでした」
 気仙沼市の大島と本土をつなぐフェリー「ひまわり」の船長を40年以上にわたってつとめる菅原進さんは、地震直後に船を守るため海へ出た。
「地震のときは家にいた。子供と孫を高台に逃がして、船に乗ったんだ。もう波は高くなってたけど、思い切ってエンジンをかけた。そのうちに津波警報が出たんだ。湾から外海に出ると家のほうへ津波が行ってるのが見えて、ああもうダメだ、家も終わりだなって思ってるうちに、目の前に大きな波が迫ってきたんだ。高さ10mくらいだったが、まだ砕けてなかったから山を登るみたいにして越えた。そうして、次々に襲ってくる波を乗り越えて沖でやり過ごしたんだ」
 結局、島で残った船は「ひまわり」1隻のみ。菅原さんは、翌12日から被災者のために船を動かし続けた。乗船客たちは、口々に感謝を述べた。
「これがなければ、私たちは島に渡れない。菅原さんは自分の家の片づけを後回しにして船を動かしている。感謝してもしきれないです」
 私が訪れたわずか1ヵ月ほどの間に、被災地の人々はもう前を向いて立ち上がっていた。この姿を、私は一生忘れない。

岩手県 宮古市
最大約40mの真っ黒な波が船も車も呑み込み5mの堤防を軽々越えていった
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3月11日午後3時23分、宮古市役所3階から市職員が撮影した閉伊川河口付近。津波は海から1km以上離れたこの地の防潮堤を一瞬にして乗り越え、市役所の1階天井まで水浸しにしたため、職員は6階まで逃げた
Photo:宮古市役所提供
宮城県 気仙沼市
津波が引いた後の町は、すべてが真っ黒焦げでまだあちこちから煙が立ち上っていた
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水産工場や商店街があった鹿折唐桑駅周辺は、津波に襲われた後発生した火災により一面焦土に。この場所は現在もほとんどが更地だ。3月13日午前7時31分撮影
Photo:吉田暁史
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鹿折唐桑駅前に打ち上げられた330tの大型漁船「第十八共徳丸」。震災遺構として保存も検討されたが、昨年10月に解体された。3月13日午前10時43分撮影
Photo:郡山総一郎
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がれきの中から荷物を運び出す人。大切な思い出がつまったアルバムを見つけたのだろうか。3月13日午前10時57分撮影
Photo:郡山総一郎
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